文書と写真・地図による「記憶」の再現

清凉寺 その3

浄土宗 五台山 清凉寺(せいりょうじ) その3 2008年12月21日訪問

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清凉寺 方丈庭園

 清涼寺本堂の西側には薬師寺がある。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には清涼寺の境内に薬師堂として描かれている。清涼寺の塔頭のように見えるが、浄土宗知恩院派の寺院である。薬師寺の公式HPによると、弘仁9年(818)に、嵯峨天皇の勅命により弘法大師が刻んだ薬師如来像を祀る寺として創建されている。その後は焼失と再建を繰り返したが、現在に残る本堂は寛永年間(1624~1644)に大覚寺門跡である尊性親王によって再建されている。そのため明治時代に入るまで大覚寺の管理下にあり、現在は浄土宗知恩院派に属している。本堂は塀などによって寺域が明確になっていないため、清涼寺の境内に直接南面している。そのため清涼寺の伽藍の一部のように見える。この本堂の西側には塀によって区切られた薬師寺の境内があり、山門の日月門が建てられている。

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清凉寺 中央に薬師寺本堂の屋根が見える

 薬師寺の本堂手前に生の六道小野篁公遺跡と記した石碑が建つ。六道珍皇寺の項で触れたように、平安時代前期の官人であり学者そして歌人の小野篁には冥府渡りの伝説が残されている。小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、孫に三蹟の一人小野道風がいる。延暦21年(802)に参議小野岑守の子として生まれる。若年の頃、弓馬をよくしたが、後に発奮して学業に励むようになる。弘仁13年(822)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長9年(832)従五位下に叙せられる。 承和元年(834)遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838)に正使である藤原常嗣といさかいを起こし、乗船を拒否する。その上、朝廷を批判する詩を作ったため嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪され隠岐へ配流される。しかし承和7年(840)許されて帰京し本位に復する。
承和14年(847)に参議となり公卿に列せられる。仁寿2年(853年)従三位に叙せられるが、まもなくして薨じる。享年51であった。

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清凉寺 方丈庭園 本堂屋根が見える
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清凉寺 方丈庭園

 小野篁は、昼は宮仕えをし、夜は冥府で閻魔大王の傍らで冥官を務めていたという話しが広く伝えられている。六道珍皇寺の本堂の背後には、小野篁が冥府への入口にしたといわれる井戸がある。そして篁が冥府から帰って来る井戸は、大覚寺門前六道町辺りにあった福生寺の井戸と伝えられる。つまり東の葬祭地・鳥辺野にある六道珍皇寺から入り、西の葬送地にある化野の福生寺から出てくることになる。そのため珍皇寺の井戸を”死の六道”、福生寺の井戸を”生の六道”と称していたと言われている。
 この福生寺は明治初年に廃寺となっているが、薬師寺から約300メートル東にかつての井戸があったが、現在では宅地開発で失われている。かつての福生寺には小野篁作と伝える生の六道地蔵尊像と小野篁像が祀られていた。それらは薬師寺に移され、毎年8月の地蔵盆にのみ拝観できる。

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清凉寺 方丈庭園

 薬師寺の西には清涼寺の西門がある。先の都名所図会には以下のように記されている。

     四ツ足門〔西の門をいふ。むかし本堂建立の時、一七日参籠する人あり、ある夜の夢に、本尊告て曰、汝が父は今畜生と生れて材木を牽牛となれり、追善を修して仏果を得せしむべしとありしかば。覚て後、霊告肝にめいじ、悲歎してかの牛を乞得て養ひしが、三月十九日命終りければ、其とき牛に着せたる衣をもつて如来の御肌を拭ひ、又牛の骸をつゝみ、此門の下に葬る、かるがゆゑに四ツ足門といふ。又其牛の皮をはぎ如来の華曼にかくる、今当寺の什物となる〕

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清凉寺 方丈庭園

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