文書と写真・地図による「記憶」の再現

教王護国寺(東寺) その3

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その3 2009年1月11日訪問

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教王護国寺 大宮通から眺め

 リーガロイヤルホテル京都の車寄前に建つ新選組不動堂村屯所跡を説明する石碑を見た後、堀川通を南に下っていく。油小路通の項で記したように、この地で堀川通が油小路通に合流し、油小路通となる。現在の堀川通は6車線の南北方向の主要幹線であるため、油小路通の方が合流したようにも思える。堀川通は、平安京の堀川小路であり、川幅4丈の堀川の両側に2丈ずつの小路があった。そのため川と道路を合わせると幅員は24メートルとなるため、大路と間違えられることもあったようだ。 JRの東海道線と東海道新幹線の高架を潜ると八条通に出る。前回の訪問は、この八条通を西に入り、東寺の北大門に続く櫛笥小路を進んだ。今回の訪問は住宅地の中を東西に走る針小路通を西に進み、大宮通に出ることとした。

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教王護国寺
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教王護国寺 宝蔵と五重塔
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教王護国寺

 天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱するため、桓武天皇は延暦3年(784)平城京から長岡京を造営して遷都を行っている。遷都後まもなくして長岡京造営使に任命されていた藤原種継の暗殺事件が起こり、大伴継人・佐伯高成らが斬首、大伴家持が首謀者とされ官籍からの除名が行われる。事件はこれだけに納まらず、桓武天皇の皇太子であった弟早良親王の廃嫡、配流そして親王の憤死へと続いていく。さらに平城京の仏教勢力である東大寺に関わる複数の役人もこの事件に関与したと考えられている。この後、相次ぐ天災や近親者の不幸、そして早良親王の祟りにより、僅か10年後の延暦13年(794)に改めて平安京への遷都を実施している。

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教王護国寺 金堂
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教王護国寺
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教王護国寺 金堂と講堂

 そのような背景があったため、桓武天皇は長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を平安京では認めているが、新たな都へ平城京の仏教勢力・南都六宗を受け入れることはしなかった。仏教の知識と能力に優れ政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと計画している。
 南北朝時代に成立した東寺の記録書「東宝記」によれば、東寺は遷都後間もない延暦15年(796)造寺長官・藤原伊勢人によって建立されている。真言宗の宗祖である弘法大師空海は大同元年(806)唐から帰国し、大同4年(809)後の神護寺となる高雄山寺に入っている。弘仁2年(811)から乙訓寺の別当となり、弘仁7年(816)には高野山が下賜されている。そして弘仁14年(823)嵯峨天皇は空海を東寺に迎えている。この時より東寺は国家鎮護の寺院であり真言密教の根本道場となっている。
 この翌年の淳和天皇の勅命により東寺の空海と西寺の守敏の祈雨の法力競い合いが、神泉苑で行われている。空海は北印度の無熱池の善女龍王を勧請し、日本国中に雨を降らせたとされている。

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教王護国寺 御影堂
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教王護国寺 毘沙門堂
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教王護国寺 小子房

 平安後期の一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。後白河法皇の皇女である宣陽門院は、空海に深く帰依し、霊夢のお告げに従い東寺に莫大な荘園を寄進している。また、毎朝食事を捧げる儀式である生身供や御影供と呼ばれる空海の命日に行われる供養を創始したのも宣陽門院であった。毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち、弘法市・弘法さんとして親しまれていることは有名である。
 中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など多くの援助を受けて栄えてきた。しかし文明18年(1486)の火災で主要堂塔のほとんどを失う。豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されているが、この後も続く何度かの火災のため東寺には創建当時の建物は残っていない。

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教王護国寺 小子房
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教王護国寺 灌頂院から小子房を眺める
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教王護国寺 灌頂院

 安永9年(1780)に刊行された都名所図会に、江戸時代中期の東寺の伽藍の様子が残されている。ここにも現在と同じ、南大門、金堂、講堂そして食堂が南から北へ一直線に並ぶ伽藍配置が見られる。この構成は平安時代の創建時の名残である。 平安建都1200年を記念して開催された甦る平安京展に展示した復元模型を中心に構成されている「よみがえる平安京」(淡交社 1995年刊)にも創建当初の姿が残されている。また京都市生涯学習総合センター・京都アスニーに展示されている平安京復元模型にも見ることができる。南北に一直線上に配置された諸堂と東南に配置された五重塔、そしてそれ以外の諸堂が西側から北側に向けて建てられている。ただし諸堂を結ぶ回廊が各所に巡らされているため、恐らく空間的にはかなり異なったものを感じるだろう。 また東寺の五重塔が境内の東南に建立されたのも、東寺と共に建設された西寺が朱雀大路を中心に線対称に計画されたことで理解できる。

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教王護国寺 灌頂院

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