文書と写真・地図による「記憶」の再現

山紫水明処 その5

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その5 2009年12月10日訪問

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山紫水明処

  文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月
                    9年10ヶ月

 頼山陽没後、3人の子供を連れた梨影は天保5年(1834)10月、福井藩医の安藤静軒に水西荘を譲り渡し、富小路通押小路下ルに移る。生活を切り詰め、山陽の残してくれた遺産を長く使うためだろう。さらに安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」によると嘉永3年(1850)正月には“姉小路お池下ル”へ転宅し、梨影は安政2年(1855)9月に、この家で病没している。享年59。

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山紫水明処

 支峰は京都頼家の2代目を継ぎ、安政4年(1857)10月、母の残した“姉小路お池下ル”の家を引き払い、高倉通六角南に家塾を開いている。弟の三樹三郎も、この家の2階に書斎を置き、2人で教授する。三樹三郎は河原町三条上ル夷町へ移り、眞塾の看板を掲げるが、安政5年(1851)9月に夷町の家で捕縛される。一方、支峰は小堀袋町にあった彦根藩老の邸宅を買い取って暮らしたが、天皇の東遷に従い東京に出る。暫くして職を辞した支峰は京に戻り、再び小堀袋町で家塾を開くと安藤は書いている。明治22年(1889)7月、享年67で病没。
 しかし岡田孝男の「草庵めぐり5 水西荘の山紫水明処 その3」(新住宅社 1952年1月刊)では、母の梨影は支峰と三樹三郎を連れて富小路通押小路下ルに移った後、この地で亡くなっている。さらに支峰は、水西荘を人手(安藤静軒)に渡したため、せめてその近くにということで、水西荘の“二丁北の鴨川に面した借宅”に住んだとしている。その後、東山の新門前町(小堀袋町)に大きな家を買い京都頼家の本宅としている。支峰が小堀袋町の本宅をいつ購入したかが明確でないものの、東京から京都に戻った後に、三本木町に一時期住んでいたように記されている。これは、下記の木崎好尚による水西荘訪問記とも一致する。詳しくは後に書くこととするが、明治27年(1894)に木崎好尚が水西荘を見学するために支峰の未亡人宅を訪問している。未亡人は小堀袋町の本宅ではなく、水西荘から“一丁”ばかり北の上之町にあり、木崎は下女の案内で水西荘を訪問している。

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山紫水明処 水西荘眺望 右下の建物群が水西荘
坂本辰之助(箕山)「頼山陽」(頼山陽伝刊行会 1929年刊)水西荘眺望 右下の建物群が水西荘

 天台寺門宗の公式HPに掲載されている青眼展墓録の中に山紫水明処についての記述がある。明治5年(1872)3月に佐々木禎三の三女ハルと結婚した富岡鉄斎は同年10月から水西荘で暮らしたこと、そして明治23年(1890)京都頼家3代の龍三によって安藤家から水西荘を買い戻されたとしている。 正宗得三郎著「富岡鉄斎」(錦城出版社 1942年刊)の鉄斎年譜の明治5年の条には以下のように記されている。

聖護院村より御幸町に移り更に10月頃御幸町より上京区新三本木南町なる山紫水明処に移る。同処に住する事三年と云ふ。或いはこの前年移転か。

 また鉄斎が描いた山紫水明図も掲載されている。辛未四月の作で落款には「写於支峰先生山紫水明処鉄斎」とある。辛未四月とは明治4年(1871)4月である。借家の相談か下検分を行った時か、あるいは前年から山紫水明処に過していたかと推測している。また本田成之著の「富岡鉄斎」(中央美術社 1926年刊)には、頼氏山碧水明処図と題された絵があるが、これは晩年の鉄斎が菅井梅関の図を元に描いたもののようで、自らが過ごした時期に見たものを、そのまま描いた絵と考えてはいけない。

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山紫水明処
古写真 坂本辰之助(箕山)「頼山陽」(頼山陽伝刊行会 1929年刊)

 頼家が山紫水明処を購入した年月については、安藤英男の論文においても明らかではない。「明治の後半期、支峰の嗣子・龍三氏(号は庫山)が安藤家と交渉して買戻しを図った。」としている。この交渉は難航し“元京都府知事“の西村捨三や富岡鉄斎、彦根の医師で書家としても有名な谷鉄臣などが斡旋し、水西荘の”跡地“全てと道路沿いまで買い足し、総計267坪、六戸の貸家を買い戻したとしている。
 水西荘の遺構は坂本箕山が訪問した明治32年(1899)頃まで確かに残っていたが、持ち主であった安藤静軒の子孫が別亭の山紫水明処のみを残し、母屋を解体して貸家を建てた記述している。坂本箕山による水西荘訪問記は「頼山陽」(敬文館 1913年刊)に掲載されているから、この時まで水西荘の一部は残っていたことは確かだと思う。安藤英男の説に従うならば、明治32年以降に安藤家によって水西荘は建替えられ、その後に京都頼家が明治時代中に買い戻したということになる。しかし西村捨三は大阪府知事を務めているが、京都府知事には就任していないなど、どうも信用に欠ける記述が気にかかる。谷鉄臣が明治38年(1905)に亡くなっているので、安藤の説を信用するならば解体建替から売却までが明治38年までに完了したことになる。

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山紫水明処

 木崎好尚の「家庭の頼山陽」(金港堂 1905年刊)に山紫水明処を訪問した時のことが記されている。もともと木崎が森田思軒へ送った手紙の内容を森田が「頼山陽及其時代」(民友社 1898年刊)に掲載したもので、再び木崎が自らの著書に再掲している。手紙の日付は明治27年(1894)1月27日となっているから上記の坂本箕山の訪問より5年古い。 先ず木崎は三本樹(木)丸太町上ル”上の町”の支峰旧宅に住んでいる支峰の未亡人に面会している。未亡人より用事があれば息子(新門前袋町行当り北側頼龍三氏)へと言われ、改めて参上するつもりだが、本日は山陽先生の旧宅を拝見したく訪問したことを告げている。下女の案内により、未亡人宅から「一丁ばかり下り南の町」にある「医師安藤なにがしの出張所」を訪れ、“その家の人”の案内により一間一間見廻っている。

門構への奥深き家にて小生は来意を述べ奥へ通りて一と間/\に見廻り申候処、その家の人案内しつゝ申され候ひしは、此の二畳半じきの一室こそ山陽先生の書斎と申伝へ御覧候へ此の丸窓も明り障子も建具一式昔のまゝにて床は此の通り壁に打附けの麁末なるものにて候、庭は随分広く此処に先生手栽の桐御座候、と云ひゝ指さゝれ候、此の室に「煙雨楼台(大字)丁巳孟夏念七日、書干三樹坡楽寿亭、旭荘謙」との額掲げあり、夫れより導かれて竹縁伝ひにいはゆる山紫水明処を一覧致候ひしが此の室は四畳半位にて二畳じき許りの板の間と相接し天井は四阿家形の葭張りにて床の間、違ひ棚揃ひあり、楣間には「山紫水明処(大字)是山陽翁旧宅、書了懐昔游、為之愴然、時安政四年丁巳復月望、七十三叟海仙」と認めたる大額を挂け右の違ひ棚の小襖にも同人の書画有之候、欄干(唐風)の下は即涓々たる賀茂の清流にて遥に東山三十六峯の碧に対し心往くばかりの閑雅清泊の室に御座候、勿論前の書斎と此の室とは別棟にて其表通りの方には旧書生部屋有之候よし申され候、小生は厚く礼意を述べ此処を立去り帰途行く/\あはれ此の出張所のあるじ昔の世にありて翁のために一匕を投じかの肺疾を治療せられたらましかば、など思ひつ/\けて宿所に返り日を隔てゝ、長楽寺の墓所にも参詣仕候

 坂本箕山の訪問記は「頼山陽大観」(山陽遺蹟研究会 1916年刊)に以下のように掲載されている。

本書の著者は、明治三十二年五月十六日、京都に遊び、頼龍三氏の案内にて此の水西荘に到り、親しく見廻った事がある。山陽の書斎であつたのは、鴨川に臨んだ二畳半敷の一室で、丸窓も、明り障子も、建具一式、昔のまゝにて、床は壁に打附けの麁末なるものであつた、庭は廣く、山陽手植の桐樹が葉を茂らせて居た。此の室には『煙雨楼台(大字)丁巳孟夏念七日書干三樹坡楽寿亭、旭壮謙』との額を掲げてあつた。山紫水明処は、之より竹縁を伝ふて到る、本家と離れたる一室にて、四畳半位に二畳ばかりの板の間と相接し、天井は阿家形の葭張り、床、違棚ありて楣間には『山紫水明処(大字)是山陽翁旧宅書了懐昔游為之愴然、時安政四丁巳復復月望七十三叟海仙』と書いた額を挂げられ、違棚の小襖にも、海仙の書画あり、唐様の欄干の下は鴨川の清流で、遥に三十六峰の碧に対し、心ゆくばかり閑雅の処である。

 この部分の説明が木崎好尚と坂本箕山が非常に似ているのは、同じ案内を受けたからではないかと思われる。

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山紫水明処

 安藤英男は上記の論文で「持主である安藤静軒の子孫が、別亭の山紫水明処のみを残して、母屋の方は解体し、その跡地に数軒の貸家を建ててしまった」とするのに対して、岡田孝男は前述の「草庵めぐり5 水西荘の山紫水明処 その3」において、頼氏が山紫水明処を購入したのは明治23年(1890)と明記している。そして明治45年(1912)頃あるいは明治末年の屋根を葺き替えた時に、頼龍三によって丁字型から現状の一文字型に改めたとしている。その理由は、丁字型の茅葺屋根だと屋根に谷があり、屋根の形状を保つのが難しいためとのことであった。
 この岡田の記述が正しいならば、上記の木崎好尚の明治27年(1894)の訪問も、坂本箕山の明治32年(1899)の訪問も、山紫水明処が既に頼家の所有に戻った後のこととなる。そしていずれもかつての水西荘にあった山陽の書斎を見ていることから、水西荘がまだ残っていた時期の訪問記でもある。山紫水明処のみを残して水西荘が失われたのは、少なくとも明治32年以降であり、頼家の所有となった後のことである。この明治末年に行なわれた屋根形状の変更と同じ時期に行なわれた可能性も考えられる。竹村俊則の「昭和京都名所圖會 5 洛中」(駸々堂出版 1984年刊)でも、「水西荘は、明治になって山陽の孫竜三によって買い戻されたが、書斎を残して解体された。」としている。

 残念ながら山紫水明処を訪問していないので、頼山陽旧跡保存会が販売している岡田孝男の「史跡頼山陽の書斎山紫水明処」(財団法人頼山陽旧跡保存会 1974・1980年刊)も手元にありません。また、この小冊子は東京の図書館等には収蔵されていないので、調べることもできないようだ。上記の3回に渡って新住宅に連載した「水西荘の山紫水明処」をベースにして書いたものと推測できる。しかし昭和27年(1952)に記述された後で訂正等を行ったことも十分考えられる。そのため、上記の記述は古い情報を基としたものになっているかもしれない。

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