文書と写真・地図による「記憶」の再現

蛍岩

蛍岩(ほたるいし) 2010年9月18日訪問

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蛍岩

叡山電鉄鞍馬線の貴船駅から京都府道361号上黒田貴船線を北に200メートル進むと府道と貴船川の間に朱塗りの玉垣と大きな岩が現れる。傍らに建てられている駒札には以下のように記されている。

蛍岩(蛍の名所)
もの思へば 沢の蛍も わが身より
   あくがれ出づる 魂かとぞ見る
木船川 山もと影の夕ぐれれに
   玉ちる波は 蛍なりけり

平安時代の女流歌人・和泉式部が貴船神社に参詣し、蛍の歌を詠みました。それから千年後の現在も、六月中ごろからこの付近一帯で、蛍の乱舞が見られます。

ここでは蛍岩と紹介しているが、安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」では下記のように蛍石と記している。

蛍石は木船くらまの落合川より南にして、■にあり。
和泉式部夫の保昌とかれぐになりける頃、此社にまうでゝ蛍の飛を見て

後拾遺  物思へば沢辺の蛍も我身よりあくがれ出る玉かとぞ見る  和泉式部

とぞ詠げれば、御とのゝ中より男子の声にて

後拾遺  奥山にたぎりて落る瀧津瀬の玉散るばかり物なおもひそ  貴船明神

式部そのゝち巫をかたらひまつりさせけるに、保昌ほのかにきゝ社の木蔭に立かくれ見侍りしに、巫となふるにたゞあらぬわざし給へといへば、式部かほうち赤めて

     千早振神の見るめもはづかしや身を思ふとて身をやすつべき 和泉式部

とよみ侍りければ、保昌きゝもあへず其こゝちの優にいとやさしくおぼえて、則式部をぐしてかへり、なほ浅からぬむすびしけるとなり。

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蛍岩 駒札には蛍岩の謂れが記されている

日文研の平安京都名所図会データベース都名所図会 巻之六 後玄武再刻20頁を確認すると、翻刻文中の■が山に裏を合わせた漢字で「やまくら」とルビをふっていることが分かる。しかし現在の貴船の周辺に落合川を見つけることは残念ながらできないため、当時の蛍石に関する記述から場所を特定することはできなかった。

     男に忘られて侍ける頃、貴布禰にまいりて、
     御手洗川に蛍の飛び侍けるをみてよめる  和泉式部
1162 もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る

     御返し
1163 奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちる許ものな思ひそ

     この歌は貴舟の明神の御返しなり、男の声にて和泉式部が耳に
     聞えけるとなんいひ伝へたる

男とは和泉式部の二度目の夫である藤原保昌のこととされている。保昌は平安時代中期の貴族であり、武勇に秀でていたことから源頼信、平維衡、平致頼らとともに道長四天王と称された。丹後守に任ぜられ、妻の和泉式部と任国に下るなどもあったが、藤原道長、頼通父子の家司も務めている。式部の歌の意は、「思い悩んでいると、沢辺を飛ぶ蛍の火も、私の身体から抜け出た魂ではないかと見るよ」とひどく思い悩んでいる胸の内を神に訴えた歌となっている。これに対して男の声による返歌は、「奥山に激しい勢いで落ちる滝つ瀬の水の玉、そのように魂が散るほど思いつめるなよ」という式部の思い悩みを慰め、事態の好転を伝える神詠であった。「都名所図会」の記述の内、ここまでは「後拾遺和歌集」によるものであるが、それ以降の記載は「後拾遺和歌集」にない。

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蛍岩 岩肌一面に苔がむしている

「都名所図会」の後半については、「沙石集」の巻十末に類似した記述が見られる。「沙石集」は無住道暁が仮名まじり文で書かれた仏教説話集で鎌倉時代中期の弘安6年(1283)に成立している。世俗的な事柄によって仏教の要諦を説くという目的で書かれており、単なる霊験談や高僧伝に留まらず、各地を遊歴した自身の見聞を元に書いた諸国の事情や庶民生活の実態そして芸能の話から滑稽譚や笑話まで多様な内容を持つ。

和泉式部、保昌ニスサメラレテ、巫ヲ語ラヒテ、貴布禰ニテ敬愛ノ祭ヲセサセルヲ、保昌聞テ、カノ社ノ木カゲニカクレテミケレバ、年シタケタルミコ、赤キ幣ドモ立テメグラシテ、ヤウくニ作法シテ後、ツヾミヲウチ、マエヲカキアゲテ、タ丶キテ三度メグリテ、「コレ體ニサセ給ヘ」ト云ニ、面ウチアカメテ返事モセズ。「何ニコレホドノ御大事思食立チテ、今コレバカリニナリテ、カクハセサセ給ハスゾ。サラバ又ナドカ思食タチケル」ト云。保政クセ事ミテンズト、ヲカシク思フホドニ、良久思ヒ入タルケシキニテ、

チハヤフル神ノミルメモハヅカシヤ 身ヲ思フトテ身ヲヤスツベキ

カク云ケル事ノ體、優ニ覚ヘケレバ、「コレニ候」トテ、グシテ返、志不浅。

以上が「沙石集」の和泉式部が貴船神社を参詣した際の逸話である。結局、式部は巫女のやってみせた通り、裾を掻き揚げ陰部を叩いて三度回るようなことはできず、「神が御覧になっていると思うと恥ずかしくてたまりません。わが身を大切に思うばかりにかえってわが身を捨てることなどできません。」という歌を詠じている。これを蔭から見ていた保昌は式部の恥じらいを優雅に感じそのまま和泉式部を連れて帰ったということらしい。どこまでが式部の計算だったかは分からないが、これを以って式部の貴船詣では目的を達成したのであった。

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蛍岩

さて「都名所図会」の後編として天明7年(1787)秋に刊行された「拾遺都名所図会」では下記のように簡潔に説明している。

蛍石〔右の石の西山腹にあり。伝云、和泉式部木船社に詣するとき、此所に蛍の飛を見て歌を詠ず、故に名づくるとぞ〕

木船河 山下影の夕暮に 玉散る波は 蛍なりけり   和泉式部

「拾遺都名所図会」の「右の石」とは、足酒石のことである。貴船口にあるとされる足酒石よりは西の山間に入った地に蛍石はあるということであろう。つまり江戸時代の中期頃には、和泉式部の歌とともに蛍岩は貴船神社に向かう参道の名所となっていたようだ。
この蛍岩を説明する駒札と共に「和泉式部 恋の道」と記された看板が玉垣の端に建てられている。どうも貴船と和泉式部の関係を深く結びつきたいと思う人がいるのであろう。

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蛍岩 北側からながめる 右側府道 左側貴船川

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