文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:京都洛東

会津藩殉難者墓地 その2

 

会津藩殉難者墓地 (あいづはんじゅんなんしゃぼち) その2 2008年11月22日訪問 会津藩殉難者墓地  真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 金戒光明寺にある会津藩殉難者墓地は、坂本龍馬や天誅組の祀られている霊山墓地と違い、訪れる人も疎らで永久の眠りを護る静寂さを常に保っている。前の道は真如堂から金戒光明寺へ抜ける裏道になっているので、ある程度の数の人が行き交っているが、この墓地内で人に出会うことは少ない。恐らく明治維新史に名を留めることのない無名の人々の墓であること、そして旧幕府軍として鳥羽伏見で戦い、敗れ去った人々の慰霊の場であるからかもしれない。同じ旧幕府軍でも壬生寺の新選組との間には大きな差がある。 会津藩殉難者墓地 明治43年(1909)3月に建… ►続きを読む

 

真正極楽寺 その2

 

天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) その2 2008年11月22日訪問 真正極楽寺  櫻本陵から、再び哲学の道に戻り、そのまま東に進む。鹿ケ谷通と白川通を横断すると次第に上り坂になってくる。そのまま進むと、北側から真如堂の境内に入っている。紅葉の名所だけに、やや盛りを過ぎているものの人出は多い。今回は金戒光明寺へ急ぎ、本堂の前を通り西雲院へ出ることとする。 真正極楽寺 白川通からの坂道  真如堂は本堂を意味する言葉で、本来の名称は、鈴聲山 真正極楽寺という天台宗の寺院である。永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三条院詮子の離宮に安置したのが始まりとされている。 比叡山常行堂の本尊・阿弥陀如来が戒算の夢に現れ、「人の集まる所… ►続きを読む

 

白川

 

白川 (しらかわ) 2008年05月20日訪問 白川 有済橋の傍らに建つ「なすありの径」の碑  祇園新橋を流れる白川は、比叡山と如意ヶ岳の間に位置する滋賀県大津市山中町の山麓にその源を発している。この周辺の谷の流れを集めて、北白川中山町、琵琶町そして地獄谷町あたりで白川の流れとなり、志賀越道に沿って下る。北白川仕伏町あたりで京都盆地に姿を現す。慈照寺(銀閣寺)の手前で琵琶湖疏水の上を交差した白川は今出川通の下を潜り、白沙村荘橋本関雪記念館の西側を廻り込む。その後、哲学の道と琵琶湖疏水と並行に南に下っていく。天王町を越え、岡崎の織寶苑の辺りで白川通に沿って南下するが、琵琶湖疏水記念館の手前で、西に折れる。動物園の手前で暗渠に入った白川は疎水の堀に注ぎ込む。再び白川の流れが生まれるのは、神宮道を… ►続きを読む

 

祇園新橋の町並み その3

 

祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) その3 2008年05月20日訪問 祇園新橋の町並み 2008年5月15日撮影  まだまだ祇園新橋の写真が残っていますので掲載します。祇園新橋の成り立ちについては、祇園新橋の町並みをご参照ください。 祇園新橋の町並み 辰巳大明神へ続く切通し 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 白川に架かる巽橋 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 巽橋から下流側を眺める 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 新橋通沿いの町並み 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み この建物は町並みの壁面線から後退して建てられている 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 巽橋から下流側を眺め… ►続きを読む

 

祇園新橋の町並み その2

 

祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) その2 2008年05月20日訪問 祇園新橋の町並み 辰巳大明神の緑と朱色が町並みを活性化している  まだ祇園新橋の写真が残っていますので掲載します。祇園新橋の成り立ちについては、祇園新橋の町並みをご参照ください。 祇園新橋の町並み 巽橋の東にある新橋 太く短いため橋とは感じられないかもしれない 祇園新橋の町並み 新橋からの白川の上流の眺め 祇園新橋の町並み 辰巳大明神 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み 町の中のお社 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み 本2階建町家塀造り様式 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み… ►続きを読む

 

祇園新橋の町並み

 

祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) 2008年05月20日訪問 祇園新橋の町並み 辰巳大明神と町家  一力亭の角で四条通の北側に渡る。祇園新橋に向かうのには、花見小路通から行くのではなく、一本西側の細い道を北に上るほうが、祇園の風情を感じられて良い。花見小路通は飲食店の入ったビルが立ち並び、新宿の歌舞伎町とほぼ変わらない風景になっている。 祇園新橋の町並み いづう 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み いづう 2008年5月15日撮影  天明元年(1781)創業の鯖寿司で有名ないづうの店の前を過ぎる辺りから祇園新橋に近づいていくという感じが強くなる。3階建てのやげんぼり末吉町店の角から、さらに道は狭くなっていく。この地は祇園末吉町切通しとなっている。夜は3層続きの客間に灯が入り、… ►続きを読む

 

祇園の町並み その3

 

祇園の町並み (ぎおんのまちなみ) その3 2008年05月20日訪問 祇園の町並み 四条通に面した一力亭  最終日の朝、八坂神社脇のホテルをチェックアウトし、荷物を持ったまま修学院離宮などがある洛北を目指す。修学院離宮の決められた拝観時間より少し早めにホテルを出て、市営地下鉄・東山駅に向うが、その途中で朝の祇園を見学する。前日の夜半の雨も早朝には上ったものの雲の流れは速く、本日の天気はどのようになるか定まらない。祗園の石畳は昨晩の雨のお陰で綺麗に洗われている。一力亭を中心とする四条通の南側の祇園を歩く。 祇園の町並み 四条通花見小路下る  上七軒でも触れたように、京都の花街は現在5箇所となっている。既に島原には御茶屋が存在していないため、六花街(祇園甲部、祇園東、島原、先斗町、宮川町、上七… ►続きを読む

 

祇園の町並み その2

 

祇園の町並み(ぎおんのまちなみ) その2 2008年05月18日訪問 祇園の町並み 夜の辰巳大明神 祇園の町並み 鴨川の西岸に建つ東華菜館  四条河原町から四条通を東に進む。近江屋 その3で触れた鳥新は、高瀬川の東詰めにあったと言われている。慶応3年(1867)11月15日の夜、坂本龍馬は近江屋から峯吉に軍鶏を買いに行かせている。おそらく往復で30分もかからない場所にあるこの店から戻ると既に事件は終わっていた。その先には東華菜館の装飾的な建物が現れ、四条大橋へとつながる。この一見4階建てに見える建物は、当時流行していたビアホールとして大正15年(1926)ヴォーリズによって設計されている。華やかなスパニッシュスタイルの外観やエントランス周りのテラコッタ・レリーフには帆立貝や巻貝、魚、蛸などの魚… ►続きを読む

 

近江屋跡 その3

 

近江屋跡(おうみやあと) その3 2008年05月18日訪問 近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑  再び話しを坂本龍馬と近江屋に戻す。 慶応3年(1867)11月15日を再現してみる。  近江屋跡 その2で触れたように越前藩から帰京した龍馬は、河原町三条の酢屋へ戻る。材木業を営む酢屋は、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得ていたことより、伏見・大坂への連絡や高瀬川沿いの各藩邸へ折衝の拠点とするには適していた。海援隊京都本部が酢屋に置かれたことで、陸奥宗光、長岡謙吉等数多くの土佐藩士が投宿している。その後、土佐藩邸と河原町通を挟んだ場所で醤油商を営む近江屋・井口新助邸へ移る。この時期龍馬は風邪をひき、床に伏せていたようで、11月15日も近江屋の2階奥座敷で火鉢で暖を取っていた。現在の河原… ►続きを読む

 

近江屋跡 その2

 

近江屋跡(おうみやあと) その2 2008年05月18日訪問 近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑  船中八策の全てが龍馬のアイデアではない。文久2年(1863)幕府総裁職に就任した松平春嶽のために、横井小楠が幕政改革の方針を国是七条により定めている。船中八策はこの国是七条に強い影響を受けている。そして龍馬も推奨した公議会論は慶応4年(1868)越前藩士由利公生による五箇条の御誓文の草案へとつながっていく。現在、船中八策の作者が坂本龍馬であること事自体にも疑いが持たれている。確かに龍馬の手による船中八策が発見されていないため証明することはできない。そういう意味でも、この時代のある範囲の人々、例えば松平春嶽、横井小楠そして赤松小三郎などが共有していた徳川幕府から移行すべき理想的な新政府像の… ►続きを読む

 

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