文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:200912

横井小楠殉節地 その2

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その2 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地では碑の建立の経緯と、横井小楠が嘉永6年(1853)に建言した「文武一途の説」を通じて、小楠の思想がどのようなものであったかを記してみた。小楠の外交に対する考え方が少し長くなってきたため、翌年の再訪を約してペリーが日本を去ったところで前項を閉じた。この項ではペリーに次いで日本を訪れたプチャーチンへの応接を通じてさらに小楠の外交政策の展開を見て行く。 ペリーの1回目の浦賀来航から僅かに遅れ、嘉永6年(1853)7月18日、プチャーチンは旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航している。幕府の定めた外交交渉の方法に従い、長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち) 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  この日は朝の散歩程度しか時間が取れなかったので、京都御所の東側のごく限られた範囲のみを歩いてみた。いずれ京都御苑内については時間をかけて見て行きたいと考えている。 京都御苑の南側を東西に走る丸太町通から寺町通を南に入り、下御霊神社に行く途中に横井小楠殉節地の碑が建つ。この碑は、その碑文より昭和7年(1932)に寄付を受けて京都市教育会が再建したことが分かる。中村武生氏の「京都の江戸時代をあるく 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版 文理閣 2008年刊)の中で説明しているとおり、京都市教育会は明治35年(1902)に創立した組織である。京都市の一部署でもなく、また似た名称の教育委員会とも関… ►続きを読む

 

維新殉難志士墓

 

維新殉難志士墓(いしんじゅんなんししのはか) 2009年12月9日訪問 維新殉難志士墓  元治元年(1864)7月19日、樫原の勤王家殉難地で、楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎と小浜藩兵との間で交戦があり、三士が無残にも斬り殺されたこと。そして小浜藩撤退後、村人によって三人の遺骸は村外れの丘に葬られたことまで記した。この日の最後の訪問地は、この三士の墓であった。大まかな場所は分かっていたものの、実際には墓地への入口を探すのにかなりの時間を費やすこととなった。 楳本僊之介、相良頼元、相良新八郎の3人の名は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)にも掲載されている。      楳本仙之助 直政 仙吉、僊之介とも。集義隊旗手。              下松、蛤屋弥… ►続きを読む

 

勤王家殉難地

 

勤王家殉難地(きんのうかじゅんなんのち) 2009年12月9日訪問 勤王家殉難地  小泉仁左衛門宅跡の東側を小畠川が流れる。もともと桂川の右岸の耕地を潤すための用水路であったため、それ程川幅は大きくない。山陰道に架けられた橋の上に勤王家殉難地の碑が建てられている。この碑については、フィールドミュージアム京都の記述が簡潔にして、詳しく説明されているのでご参照下さい。 勤王家殉難地 小泉仁左衛門宅跡 勤王家殉難地  嵯峨・天龍寺に布陣した国司信濃隊は、元治元年(1864)7月18日深夜に進軍を開始し、翌19日早朝には御所の西側の中立売門、蛤門そして下立売門周辺に集結した。中立売門を突破し御所内に侵入した長州藩軍も薩摩軍の援軍を受けた会津・桑名軍の反撃を受けて敗退する。国司信濃隊の出陣と福田理兵衛に… ►続きを読む

 

小泉仁左衛門宅跡

 

小泉仁左衛門宅跡(こいずみにざえもんたくあと) 2009年12月9日訪問 小泉仁左衛門宅跡 現在は集合住宅が建つ  樫原の辻から山陰道を西に少し入った所に、北から小畠川が流れてくる。この川は明智川ともよばれるように、明智光秀が天正3年(1575)丹波平定のおり、樫原を補給基地とし老の坂から樫原そして桂までの道を整備している。その際に、溜池や灌漑用水路の築造も行っている。小畠川はその際に作られた用水路とされている。小さな橋の傍らに駒札が建てられている。この駒札は、先の樫原の町並みで紹介した樫原宿場街と札場と同様、京都市の建てたものではないようだ。京の駒札(https://vinfo06.at.webry.info/201305/article_4.html : リンク先が無くなりました )に掲載され… ►続きを読む

 

樫原の町並み

 

樫原の町並み(かたぎはらのまちなみ) 2009年12月9日訪問 樫原の町並み 山陰街道  松尾大社では重森三玲の松風苑を鑑賞させていただいた。本日の訪問地の中でも最も期待していただけに、予定以上の時間をここで費やすこととなった。この後、再び阪急電鉄嵐山線に乗車し桂駅で下車して徒歩で次の訪問地・樫原の辻に行く予定であった。しかし時間がなくなったので、タクシーを使うことに変更した。この道は、先ず京都府道29号宇多野嵐山山田線であるが、西京区山田の山陰道の交差点から先は、京都府道・大阪府道67号西京高槻線すなわち物集女街道に変わる。同じ直線上に接続されているにもかかわらず、山陰道を挟んで2つの通りに分かれる。タクシーを府道67号と府道142号沓掛西大路五条線の交差点で下車する。府道142号沓掛西大… ►続きを読む

 

松尾大社 蓬莱の庭

 

松尾大社 蓬莱の庭(まつおたいしゃ ほうらいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭  松尾大社の「曲水の庭」と「上古の庭」を拝観した後、磐座登拝入口の前を経て、霊亀の滝と滝御前社に至る。再び御手洗川に沿って神輩所横から出る。一之井川を東側に渡り楼門を潜り出た先には二之鳥居が見える。その手前左手に客殿があり、その脇に蓬莱の庭の入口がある。 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭  現在の蓬莱の庭に面した場所に客殿が建設されたのは、それほど古い時代ではなかったようだ。 「松尾大社境内整備誌」(松尾大社社務所 1971年刊)に掲載されている数枚の絵図を参照すると、室町時代の初期頃より2階建ての楼門の南北に塀が建てられ、神域として東西を… ►続きを読む

 

松尾大社 曲水の庭 その2

 

松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭  松尾大社 曲水の庭では、この庭が完成するまでの時間的な流れを記し、いかに重森三玲が短時間の内に庭を創り上げて行ったかを明らかにした。また中国の風習である曲水の宴が日本に伝わった時期を考えることで、三玲がこの庭に託した歴史的な想いについても記してみた。 曲水の庭の設計図は、もちろん「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)に掲載されている。しかし「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)には設計図とともに施工以前の庭の様子や施工中の写真が残され、この庭がどのように造られていったかが良く分かる資料となっている。この項では具体的に庭を構成す… ►続きを読む

 

松尾大社 曲水の庭

 

松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭  上代の磐座・磐境をモティーフとした「上古の庭」に続いて、「曲水の庭」について見てゆく。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に掲載されている重森三玲の日記によると、上古の庭を設計した昭和49年(1974)4月28日に大体の設計で終わり、5月10日に門弟の斎藤忠一氏による清書が完成している。これを同月25日に河田宮司に披露し、5月29日の大安の日に松尾大社造園工事着手の奉告祭を執り行っている。この庭の施工は上古の庭が完成してからとなる。昭和49年(1974)8月1日に磐座磐境の石組が完了した翌日の2日朝より着手し、この日だけでなんと47石を組んでいる。まさに神業とよぶべき… ►続きを読む

 

松尾大社 上古の庭 その2

 

松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭  松尾大社 上古の庭では磐座と磐境のことでほぼ費やしてしまったが、ここからは話しを上古の庭に戻す。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)には大判の松尾大社庭園設計図①と②が付けられている。①は上古の庭と曲水の庭を1枚で著したもの。②は蓬莱の庭のみの設計図である。重森三玲が設計した庭だから実測図ではなく設計図となる。実測図とは異なり、設計意図を表現したものであり、恐らくこれだけを見て施工することは不可能であったと思われる。大社で庭を拝観した後で、この設計図を読むと、色々なことが分かってくる。まず石は三段構成で積むことを意図している。設計図によ… ►続きを読む

 

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