文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:京都洛中

藤井右門邸跡 その5

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その5 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡  藤井右門邸跡 その3及び、その4で明和事件の主犯とされる山縣大弐と藤井右門の宣告とその最期を見てきた。この項では宝暦事件の主犯で明和事件にも連座した竹内式部の最期と事件終結後の藤井右門の末裔とその自邸の変遷について書いてみる。 山縣大弐、藤井右門に続き竹内式部にも刑が与えられた。その宣告は以下の通りである。     勢州宇治今在家町御師鵜飼又太夫方に居候                   式部事 竹内正庵                       五十六歳其方儀、永澤町浪人山縣大弐、並同人方に居候京都正親町三条中将家来之由申立候藤井右門と、反逆一味の者の由、訴人有レ之候所、大弐、右門儀も反逆にては無レ之… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その4

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その4 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2016年3月5日撮影  藤井右門邸跡 その3では明和事件において山縣大弐捕縛となった経緯と処罰がいかに決定し、刑に処せられたかについて書いてきた。ここでは藤井右門の宝暦・明和の二事件にどのように関与し、その最期を明らかにする。 今回、藤井右門を書くに辺り、その事跡を記した書籍を探したが、殆どないことが分った。そのため唯一の伝記となる佐藤種治著「勤王家藤井右門」(中田書店 1936年刊)を参照する機会が多くなる。このようなこととなったのには、本書の序文で触れているように、藤井右門に関する史料・資料が圧倒的に少なく、伝記を纏めるのに至らないからである。徳富蘇峰も近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その3

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その3 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2011年6月18日撮影  藤井右門邸跡 その2では、明和事件の主犯とされる山縣大弐の経歴と事件の遠因となった柳子新論、そして事件の発端となった小幡藩での吉田玄蕃監禁について書いて来た。この項では山縣大弐逮捕に至った経緯と関係者に対する処分について書いてみる。 吉田玄蕃監禁事件の関係者に対する処分を明らかにするために、明和4年(1767)8月21日の小幡藩の国替、藩主の交代と隠居蟄居が行われたことまで記した。再び監禁事件が発生した明和3年(1766)12月まで時間を戻す。上記のように小幡藩内で監禁事件が発生し、玄蕃の罪案に山縣大弐が関係していたことが、どのような経路かは分からないが江戸の大弐の門人にも伝わって… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その2

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その2 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡  藤井右門邸跡では、藤井右門が関与した明和事件を説明する前に、宝暦事件の経緯を竹内式部中心に見て来た。この項では明和事件の思想的な核となる柳子新論とその著者である山縣大弐について書いて行く。宝暦事件の舞台が京都であるのに対して、この明和事件は江戸で発生している。山縣大弐は江戸で塾を開き江戸で捕縛されているため、この機会に説明しなければ他に書く所が無くなるためである。そのため、またもや藤井右門邸跡の説明からは離れてしまうことを容赦願いたい。 竹内式部に感化された中流の公家が、垂加流神道を桃園天皇に進講しようと働きかけたのが宝暦事件の発端であった。そして若い天皇の近習に主権を奪われること、あるいは幕朝関係の悪化が… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2016年3月5日撮影  相国寺墓地の禁門変長州藩殉難者塔より、再び方丈の横に戻る。境内を南に歩き経蔵の角を右に曲がると塔頭の瑞春院と西門が見えてくる。この門は上立売通に建てられているので、境内を出るとすぐに烏丸上立売の交差点となる。横断歩道を西側に渡ると目の前に大きな藤井右門邸跡の石碑が現れる。尊王論者であった藤井右門が京都に構えた邸宅の跡である。 藤井右門について書く前に、宝暦事件と明和事件の経緯を確認する。既に一度、宝暦事件については慶光天皇廬山寺陵で触れているが、明和事件に至る過程を説明する上でも重要な事件となるので、改めてここに記す。徳富蘇峰は近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1964年刊)の… ►続きを読む

 

禁門変長州藩殉難者塔 その3

 

禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その3 2010年1月17日訪問 相国寺禁門変長州藩殉難者塔  禁門変長州藩殉難者塔 その2では、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)を中心に長州兵の戦闘状況を見てきた。いよいよ、この項では相国寺の首塚に葬られたと思われる人物について書いてみる。 薩摩藩戦死者の墓 その3でも書いたように、ここに祀られている人々が明治16年(1883)6月の第13回合祀祭から始まる幕末の志士達の合祀活動から外れているとは考えにくい。 旧長州藩としては、明治21年(1888)5月の第16回合祀祭で長州藩士民601名が合祀されている。安政の大獄で刑死した吉田松陰、池田屋事件で闘死した吉田稔麿から四境戦争で病死し… ►続きを読む

 

禁門変長州藩殉難者塔 その2

 

禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 禁門変長州藩殉難者塔  禁門変長州藩殉難者塔では、幕末維新について記された書籍が上善寺とこの相国寺の首塚をどのように紹介しているかを見た後、副碑の文面を読んだ。そして薩摩側の史料として伊知地貞馨が記した「紹述編年」(「史籍雑纂 苐四」(国書刊行会 1912年刊))と山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)を取り上げ、薩摩藩兵の当日の行動を確認した。この項では長州兵の戦闘状況と、その後の悲惨な敗走の現実について光を当ててみる。 先ず明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)から見て行く。当日の戦闘で戦… ►続きを読む

 

禁門変長州藩殉難者塔

 

禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう) 2010年1月17日訪問 相国寺 禁門変長州藩殉難者塔  相国寺の境内にある後水尾天皇髪歯塚と宗旦稲荷に続き、墓地内の禁門変長州藩殉難者塔を参拝する。 浴室と塔頭・大光明寺の間の道を西に進んだ先に相国寺の墓地が現れる。入口の左脇には、禁門変長州藩殉難者墓所の石碑が建つ。これは昭和43年(1968)11月に京都市が建立した道標である。墓地に入るとその広さに圧倒される。この地には、かつて足利幕府第12代将軍・足利義晴の戒名を冠した塔頭・万松院があった。しかし万松院が無くなり、その境内は相国寺の巨大墓地となった。 入ってすぐ左手に藤原定家、足利義政そして伊藤若冲の墓が並ぶ。墓碑は古いものの外柵はまだ新しいので、近年に移設整… ►続きを読む

 

宗旦稲荷

 

宗旦稲荷(そうたんいなり) 2010年1月17日訪問 相国寺 宗旦稲荷社  相国寺の経蔵北側の後水尾天皇髪歯塚に続き宗旦稲荷に参拝する。 法堂の東側、塔頭・光源院の向かいに洪音楼とよばれる大きな鐘楼がある。元の鐘楼は天明8年(1788)1月30日の大火で焼失している。「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば寛政元年(1789)4月24日に鐘楼を仮設し鐘を架けたとある。大火から3ヵ月後のことである。相国寺の公式HPに掲載されている鐘楼の説明では、「古鐘を買って仮楼にかけ」とあるので、新しい鐘を鋳造する余裕がなかったのかもしれない。この鐘には「干時寛永六己已季卯月七日」とあるので寛永6年(1629)の造立と考えられている。ただし「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 19… ►続きを読む

 

後水尾天皇髪歯塚

 

後水尾天皇髪歯塚(ごみずのおてんのうはつしづか) 2010年1月17日訪問 後水尾天皇髪歯塚  東門から相国寺の境内に入り禁門変長州藩殉職者塔に向う途中、経蔵の北側で後水尾天皇の髪歯塚を発見した。。相国寺の公式HPに掲載されている境内図には下記のような説明がある。 後水尾帝歯髪塚後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応二年(1653)に、焼失した大塔を再建され、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚を建てました。  「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば承応2年(1653)8月18日に、「後水尾上皇、院旨により三層宝塔を再建。この日立柱。」とある。さらに明暦2年(1656)6月16日に宝塔… ►続きを読む

 

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