文書と写真・地図による「記憶」の再現

カテゴリー:京都洛中

相国寺 その4

 

臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その4 2010年1月17日訪問 相国寺  相国寺 その3では、その規模と創建当時の伽藍を中心に書いてきた。この項では江戸中期に発生した天明の大火以降の再建の状況と明治維新の上知令が与えた影響について見て行く。 相国寺は創建以来、数度の火災に見舞われ、その度に再興がなされてきた。特に天明8年(1788)1月30日未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火した天明の大火の被災は深刻なものであった。御所を始め仙洞御所、摂関家の邸宅から京都所司代そして東西両奉行所までもが悉く焼失した上、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰したとされている。焼失した範囲は、東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで… ►続きを読む

 

相国寺 その3

 

臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その3 2010年1月17日訪問 相国寺 法堂  相国寺 その2では創建前後の政治的状況を中心に、若き将軍・足利義満と春屋妙葩、義堂周信の関係について見てきた。この項では、相国寺の位置と規模について書いてみる。 まず「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 1976年刊)の有馬頼底氏著「相国寺とその歴史」を参照する。有馬は久留米藩主有馬家の分家・有馬正頼男爵の次男として昭和8年(1933)東京で生まれている。昭和16年(1941)8歳の時に大分県日田市の岳林寺で得度。昭和30年(1955)相国寺僧堂に入門し、大津櫪堂老師に師事する。昭和43年(1968)相国寺塔頭大光明寺住職を経て、相国寺派教学部長、相国寺承天閣美術館設立時… ►続きを読む

 

相国寺 その2

 

臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その2 2010年1月17日訪問 相国寺  相国寺の塔頭・林光院の墓地にある薩摩藩戦死者の墓について調べたら、その2、その3、その4と続き、思った以上の長編になってしまった。次の目的地も相国寺墓地内にある禁門変長州藩殉難者塔であるので、上立売通から相国寺の境内に入る。相国寺は2008年5月の最初の京都訪問以来となる。もともと観光客に対しての公開が少なく、法堂と方丈が春秋の特別公開時、開山堂及び庭園は秋期、浴室も春期のみの拝観となっている。その春秋の特別公開期間も、それぞれ凡そ2ヶ月間程度なので、1年の内の半分以上は非公開ということになる。その上、定期的に公開している塔頭も現在のところないため、京の夏の旅などの非公開文化財の… ►続きを読む

 

薩摩藩戦死者の墓 その4

 

薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その4 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓  相国寺の東門と墓地との位置関係  薩摩藩戦死者の墓 その3では、薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の中で、甲子戦争戦死者の行動と靖国神社への合祀について書いてきた。この項ではもうひとつの戦いである鳥羽伏見の戦いでの戦死者について記す。 上立売通北側の林光院墓地にある薩摩藩戦死者の墓の正面は南である。墓に記された「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」も南を向いている。南側正面の墓石下の基壇部分に3枚の陶板が埋められていることは既に薩摩藩戦死者の墓で記述した通りである。3枚の内正面の1枚が甲子戦争で亡くなった7名、すなわち野村勘兵衛、野村藤七郎、松下弥七郎、赤井兵之助、宮内彦二、森喜藤太、濱田藤太郎… ►続きを読む

 

薩摩藩戦死者の墓 その3

 

薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その3 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓  薩摩藩戦死者の墓 その2では、甲子戦争での薩摩藩の戦闘状況を書いてきた。この項では薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の行動を墓に埋められた陶板と幕末維新全殉難者名鑑を比較しながら明らかにすると共に、靖国神社への合祀までの道程について記す。 先ず幕末維新に斃れた人々の事跡の調べた明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊 以降、全殉難者名鑑とする)を参照する。元治元年(1964)7月19日の甲子戦争の薩摩藩の戦死者は8名。その内5名が当日死亡、残りの3名は傷が元で後日亡くなっている。8名は以下の通りである。 相国寺 薩摩藩戦死者墓 基壇に陶板が埋め込まれている 禁門の変(… ►続きを読む

 

薩摩藩戦死者の墓 その2

 

薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓  薩摩藩戦死者の墓では、薩摩藩と墓地を管理している相国寺塔頭・林光院の関係から甲子戦争の戦闘直前までの状況を書いてきた。この項では甲子戦争の戦闘状況を見て行く。 甲子戦争は、伏見より進撃した長州藩福原軍が藤森で大垣藩と遭遇することにより始まっている。元々、伏見、天龍寺、山崎の三箇所から御所にほぼ同時刻に到達するように出陣している。しかし伏見を子の刻(午前0時頃)に発進した福原軍は、御所に達する前に大垣兵と遭遇したため想定より早く戦闘が始まってしまった。伏見から御所への進撃経路はほぼ伏見街道に限られているため、福原軍がこのような事態に陥ることは、始めから分かっていたことでもある。この戦闘の推… ►続きを読む

 

薩摩藩戦死者の墓

 

薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか) 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓  上御霊神社の西の鳥居にある応仁の乱勃発地の石碑を確認した後、薩摩藩戦死者の墓に向う。相国寺の墓地ではあるものの境内の外に位置する。塔頭の林光院の東側にある東門を潜った外側、上立売通の北側にある幼稚園の西側に墓は建立されている。この場所は林光院の墓地にあたる。 相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院 2016年3月5日撮影  林光院は足利幕府3代将軍足利義満の第二子、足利義嗣を弔うために建立された寺院である。義嗣は4代将軍足利義持の弟であったが、応永25年(1418)25歳の若さで早世している。夢窓国師が勧請開山となっている。もとは二条西ノ京にあったとされる紀貫之の屋敷の旧地に開創されている。応仁の乱後… ►続きを読む

 

応仁の乱勃発地

 

応仁の乱勃発地(おうにんのらんぼっぱつち) 2010年1月17日訪問 応仁の乱勃発地  上御霊神社の西の楼門と鳥居を潜り、上御霊前通に出ると鳥居の右手側に応仁の乱勃発地の石碑がある。これは京都市が昭和45年(1970)に建てた碑である。 応仁の乱とは、室町時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた内乱である。そもそも室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いから始まり、やがて細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、さらに室町幕府8代将軍足利義政の継嗣問題も加わり、ほぼ全国に紛争が拡大していった。この応仁の乱とその後の明応2年(1493)に起きた明応の政変によって、戦国時代に突入したとも謂われている。つまり室町幕府の権力が失墜し、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる新た… ►続きを読む

 

上御霊神社

 

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ) 2010年1月17日訪問 上御霊神社 本殿  閑臥庵の山門前を過ぎてすぐに鞍馬口通を南に折れる。閑臥庵を含めてこの辺りは北区新御霊口町で、寺町通より西側の鞍馬口通の両側町である。複雑なことに、この北区新御霊口町の南東、西園寺の寺町通を挟んで西側には上京区新御霊口町がある。その西側の上京区上御霊馬場町は上御霊前通の両側町、そして現在の上御霊神社の境内を含む上京区上御霊竪町、さらに西側の上京区上御霊前町と上京区上御霊中町、北区上御霊上江町と御霊を冠する町名が複雑に入り組んでいる。この内、新御霊口町と上御霊上江町の2つの町が北区に属し、それ以外の5町が上京区に組み込まれている。 新御霊口町の住宅街を南に下っていくと道幅のある上御霊前通に出る。この辺りは上御霊馬場… ►続きを読む

 

閑臥庵

 

黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵(かんがあん) 2010年1月17日訪問 閑臥庵 竜宮門  西園寺の山門を出て天寧寺の前を過ぎ、再び寺町通と鞍馬口通が交わるところまで戻る。鞍馬口通を東に曲がれば上善寺そして出雲路鞍馬口に至るが、今度は西に曲がる。通りの北側に閑臥庵の竜宮門が現われる。 閑臥庵は黄檗宗の禅寺で山号は瑞芝山。黄檗宗は日本における三禅宗のうちの一宗派で、隠元隆琦が江戸時代に開いた宇治市の黄檗山萬福寺を本山とする。隠元禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持を務めていた。当時の中国は明末清初の混乱の真っ只中にあった。禅師は日本からの度重なる招請に応じ、承応3年(1654)に弟子20名を伴い長崎の興福寺に入っている。既に63歳となっていた禅師は、当初… ►続きを読む

 

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