妙心寺 退蔵院 その3
妙心寺 退蔵院(たいぞういん) その3 2009年1月12日訪問
前回の訪問の時に確認ができなかった方丈南庭を眺める。恐らく瓢鮎図の複写画と元信の庭に気を取られていたために、記憶に残っていなかったのであろう。今回の訪問が冬であったためか、工事中であるためなのかは分からないが、苔地が剥がれ地肌が表われているものの、拝観の栞に記されている通り、
南庭は一面の苔に松樹一本を植えるのみで背景には、椿、かなめ等常緑樹が植えられている。
であった。確かに見落としてしまうほど地味な南庭である。そのためか、わざわざ南庭と書いた小さな木札が立てられている。
都林泉名勝図会には元信の庭が
庭中は画聖古法眼元信の作なり、他に此類少し
と記され、図会も掲載されているが、南庭については全く触れていない。また(財)京都市都市緑化協会の公式HPでは退蔵院の庭を比較的客観的に記しているものの、南庭については次の一文でまとめている。
南側の庭は杉苔が敷かれ、特に造作はされていません。
方丈の西側には、小さいながら「元信の庭」が広がる。都林泉名勝図会の図会には、方丈が描かれていないが、現状とあわせると方丈西面の光景であることが分かる。恐らく庭の奥に植えられた高木の先には一の丘・二の丘・三の丘が一直線上に並ぶ雙ヶ岡が見えたことであろう。現在は周辺建物の高層化に伴い、庭の樹木を高くしているためであると思うが眺めることができなくなっている。
この庭の作庭者とされている狩野元信は、文明8年(1476)狩野派の祖とされている狩野正信の子として京都に生まれている。元信は漢画の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派様式を取り入れた室町時代を代表する絵師である。また書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画の表現様式だけに留まらず、新たな制作体制をも確立している。それはルネサンスの画家のように工房を中心とした作品制作である。これらは顧客からの注文の多様化と増加に対応して生み出されたものであり、後の狩野派の繁栄の基盤となっている。
元信は60歳代にあたる天文年間に大きな仕事に携わっていることが遺されたものから分かる。天文8年(1539)から約15年間を費やして石山本願寺の障壁画制作に携わる。この間、天文12年(1543)内裏小御所、同時期に妙心寺霊雲院の障壁画も描いる。こうした大作以外にも絵付けした扇の販売も行うなど当時の扇座の中心人物でもあった。元信は幕府、朝廷、石山本願寺、妙心寺や町衆などの時の有力者達より庇護を受けつつ、戦国の乱世を生き抜いた絵師であった。
退蔵院の公式HPには下記のように記されている。
彼が画家としてもっとも円熟した70歳近くの頃の築庭と推測されています。自分の描いた絵をもう一度立体的に表現しなおしたもので、彼の最後の作品が造園であったことで珍しい作品の一つと数えられています。
元信は永禄2年(1559)79歳で亡くなったこととなっている。退蔵院の方丈が慶長年間(1596~1615)に建てられたとすると、建立以前にこの場所に作庭されていたこととなる。いずれにしても方丈と元信の庭の時代関係を明らかにすることが必要とされる。
前述の退蔵院のHPには、方丈西面からの写真が掲載されている。恐らく北西角から撮影したのではないかと思われる。残念ながら現在の一般公開では、このような角度から庭を見ることができない。庭の南端にある手水鉢越しに見ることしか許されていないからだ。団体のみの特別拝観だと見ることが可能なのかもしれない。この角度から庭を眺めると枯滝からの流れや亀島に架かる2本の石橋がよく見えるとともに、庭の横方向への広がりを強く感じられるはずである。また宮元健次氏の「日本庭園のみかた」(学芸出版 1998年刊)に掲載している妙心寺退蔵院庭園の図(図149 P137)でも鑑賞者の視点は北西隅で下方向に描かれていることが分かる。このような鑑賞を前提した庭の構成となっている。
この庭が持つ特徴をいくつか挙げていく。先ず、非常に平面的な構成となっていること。高さ方向の表現あるいは動きが少ないと言うことかもしれない。それが視線を下部に向けて、平面的に廻らして楽しむ座観式庭園とされている由縁でもある。これは庭としての面白みや深みが欠けるという意味ではない。堅実な平面構成ができていれば非常に面白い表現となる。ただし重森三玲の作庭した東福寺方丈庭園など、抽象絵画を経験した現代人の思考は当時の人々と異なっている可能性はある。 次に、この小さな庭の中に多彩な色を持ち込んでいることである。白砂と苔地で基本となる構図を描いた上で、庭の背景に藪椿、松、槇、もっこく、かなめもち等の常緑樹を植えている。その上で多くの色を持った石を使用することで躍動感を与えている。これもまたこの庭が絵画的と評される一因となっている。豊潤な色彩は観賞する者の視線の移動を活発にする。直接、色彩から感じる印象は自然物の抽象化とは異なり、現代人にも十分に伝わる。
そして、白砂の占める面積を最大限としていること。白砂と苔地の割合が1:1あるいは2:1程度が普通と思うが、ここでは植栽の根元以外に苔地を見つけることができない位に白砂を敷き詰めている。これは銀閣寺の銀沙灘のように、方丈内への反射光を増やすための工夫だったかもしれない。また白地の絹の上に絵画を描くように、基本となる白を多めに取った結果かもしれない。いずれにしても狭く樹木の密集した西庭が明るく見える効果は上げている。またそれが色彩の豊潤さを引き出している。
中根金作の余香苑へは、方丈附玄関を出て庫裏の方向に戻ることとなる。その途中で右に折れる路地がある。ここを進むと、なまずと瓢箪を模した欄間のある中門が現れる。ここが余香苑への入口となる。中門を潜ると順路は2つに分かれる。左側は白砂を用いた「陽の庭」、そして右側は濃い灰色の砂を敷き詰めた「陰の庭」がある。この先で2つの道は交わり下ってゆく。この2つの性格の異なる庭の中央には、季節外れであったため気が付かなかったが、枝垂れ桜の巨木が植えられている。この桜を四方から眺めることができるように、順路が作られていたのである。この桜は、余香苑に入る拝観者を迎えるように植えられているが、この先の池端に作られた藤棚から眺めると、山の上に一本咲く桜の大樹のように見える。
退蔵院の境内は南西方向に傾斜がかかっているため、この先の道は下って行く。その途中に「跳珠」という扁額がかかる東屋が現れる。既に何回か退蔵院を訪れているが、いつ訪れても美しい花が飾られている。その花を眺めることで、その先に据えられた大きな石燈籠に気が付く。これが夜間の拝観で燈籠に灯が入れられていたならば、拝観者はこの東屋に必ず誘い込まれるであろう。作庭者が観賞して欲しいポイントには、アイストップが設定されている。この日本庭園の中に築かれた六角の屋根を持つ東屋は、私には南洋のコテージのようにも見える。この庭の持つ明るさと相まって、アメリカ西海岸に作られた日本庭園という印象を受ける。それもこ東屋の形状に起因しているかも知れない。
やがて余香苑の池泉が見えてくる。この池に面した場所に休処として大休庵が建てられている。さらにその先には藤棚が築かれている。この藤棚の下から来た道を振り返って見ることが、作庭者の望んだ光景であろう。跳珠亭に続くように、池には石橋が渡されている。また跳珠亭の南側には幾段にも落ちる滝が隠されてあった。恐らく「陽の庭」の先に滝口が組まれてあったのであろう。残念ながら滝口の石組みを間近に見ることができないようだ。
中根金作の年譜を見ると、昭和29年(1954)城南宮楽水苑の設計に取り組み始めていることに気が付く。そして昭和40年(1965)に京都府教委文化財保護課を依願退職し、翌年に中根庭園研究所を開設している。余香苑は昭和38年(1963)から3年の年月をかけて完成させている。中根の代表作となる足立美術館日本庭園に着手するのが昭和44年(1969)であることから、この余香苑で行われたいくつかの試みが代表作の完成に結びついて行ったと思われる。
この文書はGoogleMapを見ながら書いているが、退蔵院の境内の中までStreetViewで見ることが可能になっていることに気が付いた。確かにこれならば、自宅にいても附玄関の袴腰造りや南庭の様子まで確認できる。便利な世の中になったものだ。
この記事へのコメントはありません。