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南千住 回向院 その11



南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その11 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院

 南千住 回向院 その10では、坂下門外の変及び東禅寺事件に関わった人々について見てきた。この項ではそれ以外の回向院に葬られた人々について書いていく。

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南千住 回向院 相馬大作・関良助供養碑 B- 4
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南千住 回向院 相馬大作・関良助供養碑 B- 4

 坂下門外の変及び東禅寺事件に関わった人々を除くと、残りは「其の他」ということになる。幕末の国事犯以外にも数名、この“回向院史跡エリア”に祀られているようだ。墓碑銘の後ろの括弧内の記号は「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)の巻末に掲載されている「回向院史跡エリア墓碑一覧」で使用している符号の内、丸付き数字を数字に置き換えたものである。

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南千住 回向院 腕の喜三郎墓 B- 5
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南千住 回向院 高橋お傳墓 B- 6
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南千住 回向院 直侍墓 B- 7
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南千住 回向院 鼠小僧墓 B- 8

 相馬大作・関良助供養碑(B-4)、そして腕の喜三郎墓(B-5)、高橋お伝墓(B-6)、直侍墓(片岡直次郎 B-7)、鼠小僧墓(B-8)の四墓、徳善信士墓(B-10)、寿元信士墓(B-11)、了天信士墓(B-12)、浄信院法敬日聞居士 聞誉得法孫子(B-16)、光然信士墓(B-19)。

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南千住 回向院 徳善信士墓 B-10
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南千住 回向院 寿元信士墓 B-11
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南千住 回向院 了天信士墓 B-12
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南千住 回向院 浄信院法敬日聞居士・聞誉得法孫子墓 B-16
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南千住 回向院 光然信士墓 B-19

 南無阿弥陀仏(B-21)の右側面には下記のように記されている。

大正九年之秋修理小塚原回向院
墓地堀出無縁髑髏三十有五因
葬テ此地建石以祈其冥福
烈士遺蹟保存会

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南千住 回向院 無縁仏供養塔 B-21
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南千住 回向院 勤王烈士追悼碑 B-18
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南千住 回向院 首塚 B-23 と 花立 B-22

 大正9年(1920)に行われた簿域整備の際に発掘された35体の遺骨を烈士遺蹟保存会が供養するために建てた無縁仏供養塔である。石造仏(B-22)は正面右に「為前亡後滅非人等往詣楽邦也」、左に「為殃罰殺害諸無魂離苦得楽也」と刻されている。「橋本左内と小塚原の仕置場」はこれを非人供養塔ではなく、「仕置場に葬られたあらゆる無縁の霊を供養する目的で建てられた」首塚と考えている。その右側に置かれた花立(B-22)はこの首塚の付属物であろう。日扇上人之墓(B-24)には「明治16年7月13日建 相陽勝沢駅 施主 中村徳次郎」とある。

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南千住 回向院 日扇上人之墓 B-24
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南千住 回向院 史跡小塚原志士墓標柱 B-付録

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南千住 回向院 雲井龍雄遺墳 B- 2

 雲井龍雄遺墳(B-2)は米沢藩士の雲井龍雄の墓である。龍雄は幕末を生き抜き、一度は新政府の衆議院議員に就任している。しかし奥羽列藩同盟に属した米沢藩の出身であったことや議論に及べば徹底的に相手を叩き潰す振る舞いが災いし一月足らずで議員を辞している。明治3年(1870)2月、戊辰戦争で没落した敗残の人々を救うための「帰順部曲点検所」という施設を立ち上げ、政府に嘆願書を提出している。これが政府転覆の陰謀と見做され同4年4月に謹慎を命ぜられる。米沢藩に幽閉の後東京に送られ、深く取り調べも行われず明治4年12月26日に判決が下り、2日後に伝馬町牢獄で斬首刑に処され小塚原刑場で梟首された。享年27。同志の原直鉄、大忍坊ら13名も斬首、江秋水ら22人が獄死している。これは井伊直弼が主導した安政の大獄以上に陰惨な刑罰の執行である。このことが現在でも広く世に伝わっていないのは、雲井龍雄が賊軍の出身であり、恭順が必要であった旧米沢藩にとって公表したくない事案であったからであろう。雲井龍雄については、「其の他」の中で済ますことの出来ないものがあるので、何時か何処かで改めて書いてみたいと思う。

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南千住 回向院 磯部淺一・妻登美子之墓 B-26

 雲井と共に明治以降に亡くなった人物の墓が回向院にある。磯部淺一 妻登美子之墓(B-26)の墓碑である。磯部浅一は皇道派青年将校で昭和11年(1936)の二・二六事件で栗原安秀らとともに計画・指揮に当たった人物である。昭和12年(1937)8月19日に銃殺刑に処せられた。二・二六事件で処刑された者の多くは郷里に葬られたが、磯部はわざわざ刑死者の葬られる回向院を自らの埋葬地に選んでいる。山口県大津郡菱海村大字河原に農家の三男として生まれということで、長州出身の昭和維新の実行者の選択ということだろうか。これもまた「其の他」で語るべき内容ではない。

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南千住 回向院 蓮田東三遺墳 A-10
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南千住 回向院 信太仁十郎之遺墳 A- 9
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南千住 回向院 住谷悌之介之遺墳 A- 3
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南千住 回向院 中島久蔵之遺墳 A-16

 先ず「其の他」の中で幕末水戸藩に関係するのは、蓮田東三、信太仁十郎、住谷悌之助、中島久蔵、落合鋪之助、柴田市太郎の6名。
 蓮田東三は常陸茨城郡伊勢畑の農。父は水戸藩士の蓮田重衛門で実弟は香川敬三。文久元年(1861)米公使ハリス要撃計画を立案するも藩庁に説諭されて中止する。その後、幕府に自首し伝馬町牢獄に繋がれる。文久元年1月4日獄死。蓮田東三遺墳(A-10)。
 信太仁十郎は阪本友十の子で武田耕雲斎の僕。文久元年に蓮田東三共に米公使ハリス要撃計画を立案するも断念する。幕府に自首し文久元年5月9日伝馬町牢獄で獄死。信太仁十郎之遺墳(A-9)。蓮田と信太は東禅寺事件と同じく外国人襲撃に関連する。
 住谷悌之助は水戸藩士で勘定奉行長太夫の五男で住谷寅之介の弟。万延元年(1860)12月に脱藩し、水戸藩の奉勅運動の一環として京阪で国事に奔走。文久元年(1861)2月に堺で幕吏に捕えられ江戸伝馬町牢獄で同年11月4日に獄死する。住谷悌之介遺墳(A-3)。
 水戸藩士・中島久蔵は高信の長男で床机廻。住谷悌之助とともに万延元年(1860)12月に脱藩し、後に坂下門外の変に参加する平山兵介と行動を共にする。文久元年2月に堺で幕吏に捕えられ江戸伝馬町牢獄で文久2年(1862)1月4日に獄死する。中島久蔵之遺墳(A-16)。住谷と中島は堺で捕縛されたことから、最初は桜田門外の変への関与が疑われていたようだ。

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南千住 回向院 落合鏞之助之遺墳 A-24
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南千住 回向院 柴田一之介之遺墳 A-25

 落合鋪之助は五衛門の長子、水戸藩士で寺社方手代。文久元年6月29日、老中・松平信篤に直訴をしようとして捕まる。波亀山藩主・松平信篤と井伊直弼の間には姻戚関係があり、安政の大獄に協力した経緯から水戸藩浪士の殺害対象者でもあった。落合は今治藩預かりとなった後、永牢に処せられる。文久2年8月7日伝馬町牢獄で獄死。落合鋪之助之遺墳(A-24)。
 水戸藩士・柴田市太郎は先手同心組。文久2年の夏、常陸藤沢村で捕えられる。同年8月25日江戸伝馬町牢獄で獄死。以上の6名は何れも捕縛され江戸の伝馬町牢獄に送られ、そこで獄死している。柴田一之助之遺墳(A-25)。

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南千住 回向院 笠井伊蔵之遺墳 A-22
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南千住 回向院 西川練造之遺墳 A-23
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南千住 回向院 中村太郎墓 B- 9

 最後に笠井伊蔵、西川練造、中村太郎、窪田新五右衛門、須山萬、平尾信種の6名。
 笠井伊蔵は川越勝呂村の出身。御家人株を買って幕臣となり咸臨丸で剣術方として渡米する。清河塾立ち上げ時からの内弟子。清河塾に住込みながら伊庭道場や講武所に通う。万延2年(1861)1月、虎尾の会の一員となる。八郎に連座し投獄、文久元年10月16日伝馬町牢獄で獄死。笠井伊蔵之遺墳(A-22)。
西川練造は武蔵入間郡奥富村の医師、父は医賛庵。清川八郎が主宰する虎尾の会の一員。文久元年(1861)幕吏に追われた清河八郎と関係していたため捕縛され、同年12月14日に伝馬町牢獄で獄死。西川練造之遺墳(A-23)。
 肥前島原の中村貞太郎は変名の北有馬太郎の方が有名であろう。筑後久留米藩士。江戸に出て安井息軒に学び、同郷の真木和泉と交わる。息軒の娘と結婚し武蔵下奥富で塾を開く。虎尾の会の一員。匿った容疑で捕らわれる。文久2年6月14日江戸で獄死した。中村太郎之墓(B-9)。これ3名は清河八郎の虎尾の会のメンバーであった。万延元年(1860)12月4日に起きたヒュースケン殺害事件は同会に関係のある伊牟田尚平や樋渡八兵衛等の仕業とされ、主宰者の清河八郎は幕府の監視下にあった。その中で八郎が無礼討ちを行ったことで、幕府は八郎捕縛へと向かっていく。しかし八郎が身を隠したため、捕縛の対象が虎尾の会のメンバーに替わる。 笠井、西川、中村はそれによって捕縛され獄死している。なお中村と西川には従五位が贈られている。

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南千住 回向院 窪田新五右衛門遺墳 A-21
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南千住 回向院 須山萬之遺墳 C-33
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南千住 回向院 平尾桃岩斎信種先生墓 B- 3

 窪田新五右衛門については文久元年6月20日死亡以外には全く分らない。「勤皇祭趣意書」(東京市 1939年刊)には掲載されているが「未詳」とある。それでも昭和17年(1942)10月27日に小塚原烈士遺墳再建会が墓碑を建立している。
 須山萬は、「因伯立志人物」(鳥取仏教青年会編 1915年刊)によれば伯耆国西伯郡日吉津村の医師の子として生まれている。文久4年に藩の用事を帯びて京都そして江戸に赴き、長州藩士と水戸藩士と深く交わっている。甲子戦争の後の元治元年(1864)10月26日幕吏数十人に囲まれ、萬は捕えられている。一度は牢獄から逃げ出したが、再び捕えられ伝馬町牢獄に入れられ同年11月8日に斬首。須山萬之遺墳(C-33)。南千住 回向院 その6でも触れたように、安政の大獄に関係したのではなく、長州藩との関係が深かったため甲子戦争後の長州藩江戸藩邸没収に連座したと考えたほうが良いだろう。 平尾信種は鎌倉の人で国学者。勤皇家で、皇室の衰微を心配し高山彦九郎を慕い、東西諸国を旅行した後江戸に落ち着く。元治元年(1864)筑波天狗党に参加するも敗れて江戸に帰る。幕府の追及が厳しく捕えられ同年11月13日伝馬町牢獄で獄死。平尾桃岩斎信種先生墓(B-3)。

 以上、南千住 回向院 その4その5その6その7その8その9その10で、回向院史跡エリアの全ての墓碑を見てきたことになる。村田雷助、水口秀三郎、平尾信種、窪田新五右衛門、の4名が明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)に未掲載であることが分った。その中でも窪田新五右衛門については全く手掛かりも見つけることができなかった。

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南千住 回向院 烈婦瀧本之碑 B-20

 さて文久2年(1862)11月28日、「建碑ヲ許シ、更ニ諸藩ニ令シテ国事ニ殉ゼシ者及刑ニ服スル者ヲ録上セシム。」という幕府の令によって水戸藩、長州藩、越前藩などそれぞれ関係者の遺骸を改葬している。その際、吉田松陰の墓のように回向院に残していったものや、橋本左内の藜園墓のように一度郷国に戻った後再びこの地に戻ってきたものもある。しかし現在回向院の境内に残されている墓碑の大部分は大正から昭和にかけて再建されたものである。
 大正7年(1918)12月11日、築地同気倶楽部に於いて安政の大獄等に連座し刑死した志士の墓蹟を保存するため小塚原回向院烈士遺蹟保存会の発起人会が開催された。この会合で渋沢栄一が創立委員長に推された事が、「渋沢栄一伝記資料」に残されている。この大正7年は明治維新50年にあたる年であるので、それに合わせた創立であろう。殉難烈士の墳墓の多くが荒廃に帰し、志士の赤誠を偲ぶよすがもない状態になっていることを嘆き、翌年の1月には、渋沢栄一、中原邦平、菊池晋二等が小塚原回向院保存会を設立している。会員を募り基金二十万円を募集し、寺院の改築、忠魂堂記念碑の建設、遺物展覧会の開催等、殉難烈士の英魂を慰藉し、永久に志士の事蹟を後世に遺すことを企画している。ここで、「小塚原に骨を埋むる名士五十三名」という記述がある。 小塚原回向院烈士遺蹟保存会の趣意書によると、板垣退助、岩崎英重、金子堅太郎、田中光顕、中原邦平、松平慶民、三浦梧楼、渋沢栄一等が名を連ねている。なお「渋沢栄一伝記資料」には会創設の沿革として次のことが記されている。

    回向院住職 水野了石氏談
イ、最初東海銀行頭取菊池長四郎氏の息菊池晋二、松竹株式会社の向山庄太郎の両氏発起す。菊池晋二氏偶々青淵先生と親交あり、因つて菊池氏より先生に懇願して先生を発起人に加ふ。
ロ、発起人会に於て先生を創立委員長に推す。而して菊池氏を理事長に、向山氏を理事に選ぶ。先生は発起人会に出席して演説せらるゝ等頻りに尽力せらる、而して向山氏は松竹会社関係の人として、歌舞伎座に於て基金募集の為め演劇会開催等に尽力(竜門雑誌第三六八号六一頁参照)
    ○下略

 最初から遺蹟保存会に松竹株式会社が関係していたということは後の演劇化や映像化の可能性を考えると納得がいく。
 この渋沢栄一が会長を務めた小塚原回向院烈士遺蹟保存会は、大正9年(1920)秋に無縁仏供養塔(B-21と大正10年(1921)7月に渋沢栄一の篆額、岩崎英重の撰文で烈婦瀧本之碑(B-20)を建立している。岩崎英重は明治44年(1911)に「桜田義挙録」(吉川弘文館 1911年刊)著している。前者は墓域の整備を行う中で発掘した遺骨の供養であろう。

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南千住 回向院 烈婦瀧本之碑 B-20
渋沢栄一篆額  岩崎英重撰 
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南千住 回向院 烈婦瀧本之碑 B-20
小塚原回向院烈士遺蹟保存会理事長 菊池晋二

 この後、東京市主催の勤皇祭が昭和14年(1939)に開催される。その趣意は「時局重大の折柄、義勇方向の精神を普及するため、明治維新当時の志士を顕彰する」というものであった。日比谷公会堂で中央慰霊祭が行われ、回向院を始めとする29の寺社で個別の慰霊祭が行われた。もともと景岳会や小塚原回向院烈士遺蹟保存会、小塚原常行会、小塚原烈士遺墳再建会のような志士を顕彰する団体が存在し、東京市はそれらの各団体に慰霊祭を委嘱する形で勤皇祭が組織化されたようだ。同16年には11の団体が加盟する維新烈士顕彰会が組織され、各団体は代表者を出し中央慰霊祭に参加するとともに、他の寺社への参拝も行ったようだ。さらに同18年には日本橋高島屋で東京市と大政翼賛会主催の勤皇烈士顕彰展覧会が行われ、遺品、遺墨の展示や講演会が催された。元来東京に関連の無かった志士の慰霊祭を東京で行うことに違和感が生じるのは当たり前である。この小塚原の刑場に葬られ、あるいは青山墓地や谷中墓地に墓が建立されたことによって、故郷を離れ東京で慰霊祭が行われることには、首都の戦意高揚という大きな目的が存在したと考えるべきであろう。

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南千住 回向院 本堂北側の墓地の後列左側 烈士遺墳再建碑 A-26

 最後に小塚原烈士遺墳再建会について書く。“回向院史跡エリア”のAゾーンの端に烈士遺墳再建碑(A-26)がひっそりと建っている。この碑文によれば小塚原烈士遺墳再建会は昭和6年(1931)に創設され、同17年に遺墳の再建を完了している。Aゾーンにある烈士遺墳再建碑を含む26碑の内A-15の古川忠興之遺墳を除く全てが遺墳再建会によって、昭和8年(1933)から昭和17年(1932)10月27日までの間に建立されている。Bゾーンはなし、Cゾーンの小林良典墓(C-22)、鵜飼吉左衛門・幸吉遺墳(C-24)、森六物之遺墳(C-31)、梅田源次郎遺墳(C-32)、須山萬之遺墳(C-33)、水口秀三郎之墓(C-35)の6墓である。当会の発起人代表はアジア主義者の巨頭で政治団体・玄洋社の総帥の頭山満であった。頭山は昭和19年(1944)10月5日に死去しているので、この事業は最晩年のものである。当時、東久邇宮の依頼で蒋介石との和平会談を模索していたが、遂に昭和16年(1941)に会談は実現せず頓挫する。遺墳再建はその後に竣工している。

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南千住 回向院 カールゴッチ之墓 ?

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南千住 回向院 首塚 B-23

「南千住 回向院 その11」 の地図


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南千住 回向院 その11 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  回向院 35.7322 139.7978
01   泪橋 35.729 139.7994
02   延命寺 35.7316 139.7978
03   円通寺 35.734 139.7928
04   素戔雄神社 35.7371 139.796
05   荒川ふるさと文化館 35.7375 139.7954
06   千住大橋 35.7393 139.7973
07   千住宿 35.7505 139.8028
08   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331 139.7985
09   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412 139.7985

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