八条ヶ池
八条ヶ池(はちじょうがいけ) 2009年12月9日訪問
乙訓寺より再び文化センター通りを南に歩き、八条ヶ池に至る。長岡天満宮の歴史については次の訪問地であるため、そこで記すこととする。しかし創設時期を特定できる明らかな記録は、どうも残っていないようだ。それに対してこの八条ヶ池の開削については以下のようなことが残されている。
明治3年(1870)にまとめられた長岡天満宮の由緒書上によると、元和9年(1623)境内一帯は八条宮智仁親王の家領となっている。この家領は後に京極宮に継がれていく。長岡京市観光協会のブログ 長岡京なう では、この八条宮の家領は徳川秀忠によって与えられ、徳川和子入内に関係するものとしている。幕府は元和4年(1619)より入内の準備を行っていたが、およつ御寮人事件が発覚しその後の事態の収拾に時間を要したため、入内が実現したのは元和6年(1620)6月18日のことであった。朝廷側の推進役として尽力した智仁親王に秀忠が献上したとすれば元和9年(1623)はやや遅いような気もする。 智仁親王の王子である智忠親王は、今出川八条宮邸内にあった父の学文所を、長岡天満宮境内に移している。そして台所や湯殿などを建て増して開田御茶屋と称した。そのため開田御茶屋は、細川幽斎が智仁親王に古今伝授を行った建物と考えられている。京の街中では火災を被る可能性があるために、この開田村へ移転されたという伝承もあるが、その真実は明らかではない。
明治4年(1871)宮家の領地上地の際に、開田御茶屋は所縁のある細川藩へ下賜され、解体し大阪の細川藩倉庫で保管されている。この後、大阪での保管が長く続き、40年後の明治44年(1911)に、やっと熊本へ移され、大正元年(1912)歴代藩主を祀る出水神社の境内に完成している。現在は水前寺成趣園内に古今伝授の間として建つ。
復元に際しては、上記のように解体したまま長く置いてあったため、腐朽した材が多かったこと、「当時の見取図」があったのでそれを使用したこと、「斯道専門の人にも謀り」桂離宮や大徳寺龍光院等を参考にしたようだ。西和夫氏は「古今伝授の間と八条宮開田御茶屋 -桂宮日記による由緒の検討-」(日本建築学会大会学術講演梗概集 1982年)で、部材の大部分に新材を用いたことを含め、元の開田御茶屋の旧状をどの位伝えているか疑問を呈している。それでも智仁親王の学文所を智忠親王が開田に移し、開田御茶屋としたこと。そして現存する熊本の古今伝授の間が開田御茶屋の部材を使用して復元されたものであることを認めている。なお西氏は開田御茶屋は洛外図等より社殿の南方のやや登ったところにあったと推測している。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に長岡天満宮の図会が掲載されている。この社殿の南側(左端)に「茶や」と記された建物が見える。この建物がかつての開田御茶屋なのかもしれない。2012年11月5日、長岡天満宮の境内で「古今伝授の間ゆかりの地」の石碑の除幕式が行われている。石碑の「温故知新」の揮毫は、細川家当主で元首相の細川護熙氏によるもの。これに合わせて長岡京市立図書館では開田御茶屋に関する企画展が開催(http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20121102000040 : リンク先が無くなりました )されている。
享保十四年山城国高八郡村名帳によると長岡天満宮のある開田村の村高は467石であった。この内、櫛笥家領20石以外は全て八条宮領であったことが明らかになっている。寛永12年(1635)親王は歌仙を奉納、同15年(1638)境内東に池を開き、同16年(1639)には境内の周囲に堀を掘っている。池を八条ヶ池と呼ぶのはこの縁によっている。
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