文書と写真・地図による「記憶」の再現

貴船神社 奥宮 船形石



貴船神社 船形石(きぶねじんじゃ ふながたいわ) 2010年9月18日訪問

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貴船神社 奥宮 船形石

貴船神社 奥宮 その2では奥宮の境内ついて、そして貴船神社 奥宮 その3では奥宮の本殿の遷宮について書いてきた。この項では奥宮の境内にある船形石を中心に貴船神社の遡源伝説について記す。

船形石は貴船神社奥宮の本殿・拝殿の南西に築かれている。この奥宮の船形石以外に船を連想させるものとして、本宮の重森三玲作庭による天津磐境(昭和40年(1965)作庭)と結社の天乃磐船(平成8年(1996)奉納)がある。しかし本宮と結社は近年に整備されたものである。一方、奥宮の船形石は既に昭和34年(1959)に刊行された竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻2 」(白川書院 1959年刊)にも「船形石は奥宮本殿の傍にある。」という記述があり、さらに大正11年(1922)に刊行された全国有名神社御写真帖(皇国敬神会 1922年刊)には、官幣中社貴船神社として奥宮の写真が掲載されている。綱本逸雄氏の「京都三山石仏・石碑事典」(勉誠出版 2016年刊)によれば、高さ約2メートル×長さ約10メートル×横幅約4メートルの石を積んで船の形を模した構造物である。綱本氏は同書で船形石の謂れを次のように簡潔に纏めている。

昔、玉依姫(神武天皇の母)が「黄船」(「木船」)に乗り浪速から淀川、鴨川を遡り、貴船川と鞍馬川の合流点で川瀬が浅くなったところで、梶を取り外し(梶取社の由来)、貴船川を遡っていまの貴船神社の地に上陸。玉依姫が乗ってきた黄船を地下に納めた

つまり玉依姫の黄船を人目に触れないようにするために地下に納め、さらにその上に石を積んで築いたものが船形石であるようだ。船形石の周囲はそれほど大きくない石を積み上げられているが、その頂部は盛り上がり一面に苔生していることから中心部は土を盛っているように見受けられる。また周囲には注連縄が張られ神聖な領域であることを示している。

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貴船神社 奥宮 境内を神門から眺める<br>中央奥に船形石が見える

上記の黄船遡源神話は既に梶取社の項で取り上げている通りである。今はアクセスできなくなっているが、かつて貴船神社の公式HPには以下のように梶取社を説明していた。

貴船神社創建伝説によると、約1,600年前(第18代反正天皇の御代)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が浪速の津(現在の大阪湾)に御出現になり、『われの留まるところに水源の神を大事にお祀りすれば、人々の願いには福運を与えるであろう』と告げられ、水源を求めて自ら黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼってこられた。

この謂い伝えから、三浦俊介氏は「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)で以下のような貴船神社の歴史を提起している。

今で言う「鞍馬・貴船」の地に山人たちの崇敬を受けていた岩石や清水の聖地があった。そこに、やがて渡来系白髭族が白髭社や百太夫社を祀りながら瀬戸内海を通り、大阪湾から遡上して上賀茂・貴船へと到達し、定住した。平安時代に入り、大和国丹生川上社の「罔象女神」を勧請し、平安時代の洪水を経て「高龗神」奉斎へと進展した。「舌」を名乗っていた一族は、その後、強大なカモ族が祀る賀茂別雷神社との確執の中で、自らの存在意義を高めるためにも、神社神話を荘厳昇華させる必要があった。そのために、おそらく氏族内で伝承されていたであろう「白髭遡源神話」を基に、賀茂別雷神社の遡源神話を援用して「黄船遡源神話」を作り出した。その一方で「貴布禰大明神」の降臨神話をも整備していったものと思われる。

三浦氏は同書で貴船の神が祀られたのは奈良時代以前に遡ると推測している。その時点では荘厳な社殿などはなく、西側の山=貴船山を神体山とし清浄な湧水と巨石群を神聖なものと崇めていたのであろう。また、この頃貴船という地名が既にあったかも定かでないようだ。奈良時代以前の日本には黄という色名がなかったと考えている。日本古来の色名は黒青赤白の4色であり、黄帝や皇帝などを象徴する黄色は後に中国から輸入された色彩概念でもあったからである。猿田彦命を祀る白髭社や道祖神とされる百太夫を祀る百太夫社を信奉する渡来人かどうかは確定できないまでも、奈良時代以前に舟を使い内陸に分け入り、この地に達していた人々が存在していたことは今に伝わる遡源伝説からも推測できる。ただし三浦氏は、舌氏が最初に貴船に分け入ってきた白髭族の末裔であるかは明らかにしていない。それには竜蛇神の祭祀や狐の重視が白髭族の祭祀の在り方と一致するか、あるいは貴船神社と伏見稲荷大社との関係や白髭族と秦氏の関連についての解明がまだ必要だとしている。

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貴船神社 奥宮 船形石の頂部

いずれにしても貴船神社の黄船遡源神話がどの時代に作成されたのかも判明していない。ただ貴船神社の残されている「黄船社秘書」は宝暦元年(1751)以降の成立と考えられている。従って船形石がいつの時代に造られてものなのかも不明である。秋里籬島によって安永9年(1780)に著された都名所図会には、江戸時代中期の貴布祢社の様子が分かる図絵が残されている。この図絵には奥宮の神門、拝殿、本殿と3つの摂社らしきものが見える。その他に本殿の東側の権地にお社のようなものや拝殿の西側に石を積んだ塚のようなものも見える。さらに神門の傍らに建築物とその脇に「おふね」という文字もある。この神門の建築は既に無くなった地蔵堂だと思われる。宝暦4年(1754)に釈浄恵により山城国の名跡の巡行を目的に記された「山城名跡巡行志」(新修京都叢書 第10巻(光彩社 1968年刊))に下記のような記述が見られる。

○貴布禰 在鳥居有二所南向拝殿社前(中略) ○上社 在南向 ○地蔵堂 在門内正面 ○本社南向拝殿在地蔵堂祭神秘 ○御船 在拝殿西 ○日吉社 在同南

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貴船神社 本宮 天津磐境

以上のように神門と拝殿の間に地蔵堂があり、現在の船形石と推測できるものもも拝殿の西側にあったことが分かる。また「山州名跡志」(新修京都叢書 第18巻(光彩社 1968年刊))にも御船の記述が見られる。

○御船 積石為。南北二間許。高一間餘。在拝殿西

南北二間許とは現在の約10メートルに比べるとかなり小振りであったようだ。「山州名跡志」は白慧こと坂内直頼が元禄年間に実地踏査を行い、神社・仏閣・名所旧跡の由来、縁起等を記したもので正徳元年(1711)に刊行されている。恐らく江戸中期には現在の船形石の原型となるものが奥宮の境内に既に存在していたようだ。

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貴船神社 結社 天乃磐船

因みに地蔵堂について、「式内社調査報告 第一巻 宮中・京中・山城国」(皇学館大学出版部 1979年刊)で明治43年(1910)に作成された「官幣中社貴船神社御由緒書」の下記の一文を引用している。

本社ニ元不動堂、奥宮ニ地蔵堂有之、各看坊所アリテ別雷神社供僧勤番シ来リシガ、維新ノ際廃止セラル、

奥宮の地蔵堂は明治維新の廃仏毀釈、明治4年(1872)の上賀茂神社からの独立によって境内から消滅したのであろう。現在の奥宮の拝殿前が広々とした雰囲気を与えるのはそのような理由からである。

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貴船神社 奥宮 船形石の欠き込み部分

「貴船神社 奥宮 船形石」 の地図


大きな地図



貴船神社 奥宮 船形石 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
赤●01  貴船神社 奥宮 手水 35.1282 135.7649
02  貴船神社 奥宮 神門 35.1284 135.765
03  貴船神社 奥宮 拝殿 35.1287 135.7651
04  貴船神社 奥宮 本殿 35.1287 135.7652
05  貴船神社 奥宮 権地 35.1287 135.7652
06  貴船神社 奥宮 船形石 35.1287 135.765
07  貴船神社 奥宮 連理の杉 35.1284 135.7649
08  貴船神社 奥宮 摂社・吉田社 35.1285 135.7649
09  貴船神社 奥宮 摂社・鈴市社 35.1287 135.7651
10  貴船神社 奥宮 摂社・吸葛社 35.1287 135.765
11  貴船神社 つつみが岩 35.1274 135.7646
12  貴船神社 思ひ川 35.1271 135.7647
13  相生の大杉 35.127 135.7646
14  貴船神社 林田社・私市社 35.1269 135.7644

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