八条ヶ池 その2
八条ヶ池(はちじょうがいけ)その2 2009年12月9日訪問
寛永15年(1638)長岡天満宮の境内東に池を開削した八条宮智仁親王は、正親町天皇第5皇子である誠仁親王の第6皇子として天正7年(1579)に生まれている。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)で、同母兄に後陽成天皇や定輔親王・勝輔親王・邦慶親王らがいる。父の誠仁親王については、大雲院の項で記したように、天正10年(1582)6月2日、すなわち本能寺の変が起きた日、二条新御所には皇太子であった誠仁親王が在宅していた。 もともと二条晴良・昭実父子の邸宅であったが、織田信長が上洛時の宿舎とするため、京都所司代の村井貞勝に命じ、二条邸を譲り受けて改修を行っている。信長と縁戚関係にあった二条晴良は、既に信長より報恩寺に新邸を設けてもらい、移徒していたため既に空き家になっていたようだ。信長は天正5年(1577)閏7月に初めて入邸し、8月末には改修を終えている。以後2年にわたり二条御新造に自ら居住し、京の宿所として使用してきた。天正7年(1579)以降は、この邸に誠仁親王を住まわせることになり、その皇子である五宮邦慶親王とともに二条新御所に転居していた。
本能寺の変の起きた夜、妙覚寺に宿泊していた織田信忠は、二条新御所に入り明智光秀と話し合いの末に誠仁親王を御所へ移すことに成功している。その後、信忠は二条新御所に籠城し自害して果てている。この戦いで二条新御所は妙覚寺とともに焼失している。
信忠によって救い出された誠仁親王も天正14年(1586)に病没したため、皇太子であったにもかかわらず即位することはなかった。そのため遺子である和仁親王(後陽成天皇)は正親町天皇の猶子となり、同じく天正14年(1586)に譲位されている。後陽成天皇は後に誠仁親王へ陽光太上天皇の尊号を贈っている。
智仁親王の長兄であった和仁親王が即位して後陽成天皇となり、定輔親王は四天王寺別当に、勝輔親王は天台座主に就いている。そして第5皇子の邦慶親王が織田信長の猶子となっている。これに倣い智仁親王も天正14年(1586)今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束された。しかし同17年(1589)秀吉の実子鶴丸が生まれたために猶子は解約となり、その代わりに同年12月秀吉の奏請によって八条宮家が創設されている。天正19年(1591)1月親王宣下を受け、次いで元服して式部卿に任じられている。慶長6年(1601)3月一品に叙せられ、同5年(1600)7月細川幽斎から古今伝授を受け、寛永2年(1625)12月これを甥の後水尾天皇に相伝し、ここにいわゆる御所伝授の道が開かれる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直後、兄の後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうとした。徳川家康に譲位の旨を打診したが、家康は智仁親王が秀吉の猶子であることを理由に反対している。そのため皇位は慶長16年(1611)に良仁親王の弟の政仁親王、すなわち後水尾天皇が継ぐこととなった。
元和6年(1620)智仁親王は家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれるようになる。八条宮の本邸跡は京都御苑内の今出川門の東側に宮内庁職員宿舎として残されている。建物は二条城本丸に移築されて保存されているため、敷地を囲む築地塀と表門と豪壮な勅使門の二つの門が残る。なお八条宮も下桂村が八条通の沿線上にあったことから称されている。智仁親王は寛永6年(1629)享年51で薨去している。
八条宮家は初代の智仁親王の後を第一王子の智忠親王が継いでいる。親王は桂離宮の造営に着手した元和6年(1620)に生まれている。寛永元年(1624)後水尾天皇の猶子となり、寛永3年(1626)12月親王宣下を受け忠仁と命名され、後に智忠親王と改称する。寛永6年(1629)2月元服して、中務卿に任じられる。上記のように同年(1629)4月智仁親王の薨去により宮家を継承している。
寛永19年(1642)9月前田利常の女富子を妃とする。しかし後嗣を儲けることはできなかったため承応3年(1654)後水尾天皇の第13皇子穏仁親王を養子に迎えている。明暦3年(1657)二品に叙せられる。寬文2年(1662)43歳で薨去。父の没後、しばらく荒廃していた桂離宮を改修し、御殿を増築し庭園を整備したのは智忠親王の功績である。
この後八条宮家は後水尾天皇の皇子・穏仁親王、後西天皇の皇子の長仁親王と尚仁親王(長仁親王の弟)が継いでいる。霊元天皇の皇子である作宮が継いだ時に常磐井宮と改められたが、4歳で夭折する。やはり霊元天皇の皇子で作宮の兄に当たる文仁親王が継ぎ、京極宮の宮号を賜っている。京極宮は文仁親王の子と孫が継いだが、京極宮公仁親王が王子女に恵まれなかったため、親王没後寿子妃を当主として宮家は維持されている。しかし寛政元年(1789)妃が死去したことにより、宮家は空主となる。
文化7年(1810)9月光格天皇の命で盛仁親王が京極宮を継承し桂宮の宮号を賜る。文化8年(1811)親王宣下を受け盛仁と命名されるが、翌日に薨去している。また天保6年(1835)仁孝天皇の命により皇子の節仁親王が桂宮を継承する。そして天保7年(1836)親王宣下を受け節仁と命名されるが、先代と同じく同日あるいは翌日に薨去している。
幕末の文久2年(1863)異母弟の節仁親王の没後当主不在となっていた桂宮家を淑子内親王が第12代桂宮として継承している。これは女性が当主として世襲親王家を継承した唯一の例でもある。淑子内親王は明治14年(1881)53歳で薨去する。相国寺にて葬儀が執り行われ、泉涌寺内に葬られる。これをもって桂宮家は継嗣不在のため断絶となる。
この記事へのコメントはありません。