仲恭天皇 九條陵
仲恭天皇 九條陵 (ちゅうきょうてんのう くじょうのみささぎ) 2008/05/10訪問
九條陵への道筋を東福寺で尋ねると、どうもはっきりした答えが返ってこなかった。とりあえず芬陀院から日下門の前を南に折れ、六波羅門・勅使門の前を過ぎて数分歩くと比較的新しい住宅地の中に迷い込んでしまった。あたりを少し探し歩くと大きな木のもとに石段と碑がある角に出た。碑を読むとここが九條陵と月輪南陵への参道の入口であることが分かった。
石段を数段登ると参道は直角に折れ、東方向へ真直ぐに緩やかな勾配で伸びていく。途中右側に「崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(すとくてんのうちゅうぐうこうかもんいんつきのわみなみりょう)」がまず現れる。皇嘉門院・藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、平安時代末期の摂政・藤原忠通の長女で、大治5年(1130年)に崇徳天皇の中宮となる。
崇徳天皇は永治2年(1142年)に異母弟である近衛天皇に譲位し上皇となる。しかし実権は父である鳥羽法皇に握られていたため、院政を行うことのできない上皇であった。その近衛天皇が久寿2年(1155年)に死去すると今度は皇位継承者の決定を鳥羽上皇と藤原忠通の主導の下で行われ、後白河天皇が即位することとなる。翌年の保元元年(1156年)7月2日に鳥羽法皇が死去すると崇徳と後白河の緊張関係は臨界点に達し、ついには同7月10日に崇徳は藤原頼長とともに生き残りを図るために武力で天皇方を倒そうとした。これが保元の乱である。しかし翌11日には平清盛・源義朝らの奇襲攻撃を受け敗走を余儀なくされた。
この敗戦により崇徳は讃岐に配流され、出家した皇嘉門院はそのまま京に留まることとなった。中宮という立場から上皇に随侍し身の回りの世話を行うことはできないのが通例であったようだ。いずれにしても讃岐への同行は父忠道が許すはずもなく、同行できなかったと理解すべきであろう。忠道の没後は九條家の祖となる異母弟の兼実の後見を受け、皇嘉門院は60歳まで生き永らえた。治承4年(1180年)には兼実の嫡男良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院領などを相続させた。これが九条家家領の礎となった。
ここまでは九條家三代目にあたる道家が東福寺建立を発願する嘉禎2年(1236年)以前の歴史であり、この陵墓が最勝金剛院の真南に位置するのも理解できるところである。
皇嘉門院月輪南陵を後にし、さらに参道を進むと正面に仲恭天皇九條陵を示す宮内庁の説明があり、ここで参道は右手(南)に折れる。さらに歩を進めると程なく仲恭天皇陵の正面に達する。
仲恭天皇については、東山本町陵墓参考地の項をご参照下さい。仲恭天皇は承久の乱の戦後処理により、わずか2歳で廃帝され母親の実家である九條道家に渡御された。天福2年(1234)17歳の若さで崩御されたが、天皇としての即位すらも認められず諡号・追号がつけられなかった。初めて明治3年(1870)に天皇として認められ、同22年(1889)にこの地に円墳が作られた。
戦乱に翻弄された2人の陵墓がこの地にあるのは偶然であったのか、あるいは何らかの意図を持って行われたのであろうか?いずれにしても晴れた日には、洛南の素晴らしいながめが期待できるこの静かな地に陵墓は築かれている。
皇嘉門院月輪南陵を過ぎ、仲恭天皇陵に至る参道の途中を右手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。
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