太秦の町並み
太秦の町並み(うずまさのまちなみ) 2009年1月12日訪問
木嶋神社の境内から、二の鳥居を潜ると東西に走る通りに出る。この通りは太子道とよばれている。一般的に太子道とは、日本の古代道路のうち、聖徳太子が通ったとされているものを指し示すようだが、この太子道は太秦広隆寺への参詣道として利用されていたようだ。京都観光Naviの太子道の項(https://vinfo06.at.webry.info/201203/article_4.html : リンク先が無くなりました )によると、中京区西ノ京壺井町にある壷井という井戸の前の道。上京区の出世稲荷から西へ延び、右京区太秦安井までを太子道としている。さらに、京都クルーズ~平成の京雀~のブログの中に掲載されている 太子道(4) ~まとめに代えて を見ると太子道の地図上の位置がよく分かる。京都の通りのイメージと異なり、かなり屈曲の多い道となっている。ひとつ前のエントリーである 太子道(3) ~太子道と旧二条通 を見ると、太子道が明治末期から昭和初期にかけて田畑の中を延びる道であったことが分かる。
秦氏と広隆寺の関係は次に訪れる広隆寺の項で触れるとし、ここでは秦氏と太秦の関係を記す。既に嵐山の町並みや伏見稲荷大社 その2、伏見稲荷大社 その3で触れたように、平安遷都以前の京都の形成に、秦氏が果たした役割は大きい。日本書紀によると応神天皇14年(283)に弓月君(融通王)が朝鮮半島の百済から120県の民を率いて帰化したとされている。しかし秦氏の基となった氏族が新羅から日本に渡来したのは、もう少し後の時代の5世紀中頃のことだと考えられている。そして山城国葛野の太秦あたりに定住したと考えられている。林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年刊)にも、この時期に日本に渡来した秦氏が湿潤な地域の土地改良のため桂川に大堰を造り、河川の水量を調整することにより、大規模な開拓と耕地への灌漑が可能にしたと考えている。古代日本人にとっては、秦氏の水利技術は驚異的なものに見えたのではないだろうか。 残念ながら秦氏が築いた大堰は残っていないが、一ノ井堰碑のある辺りとするならば、その下流の左岸の嵯峨野や右岸の嵐山は秦氏の開拓地となったと考えられる。川の南岸の法輪寺の寺域には三光明星尊を祀った葛野井宮が古墳時代があり、これが秦氏の入植により氏族守護の祖神となっている。また大宝元年(701)勅命により秦忌寸都理が社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移した松尾大社がその下流に建てられている。 松尾大社以外にも、推古天皇11年(603)また同30年(622)頃に秦河勝によると考えられている広隆寺、和銅年間(708〜715)に、秦伊侶巨が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峰に神を祀った伏見稲荷大社が創建されている。
林屋辰三郎は「京都」の中で、秦氏の優れた技術は臣や連などの姓を持つ豪族らの羨望の対象となり、秦氏自体は分散し豪族達に使われる立場になっていったと記している。その後、各地の秦部・秦人を集めて統率者となる秦酒公が現れたのが、雄略天皇の頃(456~ 479年)であったとされている。秦氏の渡来を日本書紀に記された応神天皇14年(283)ではなく、上記のように5世紀の中頃とすると、丁度その時期に一致する。もともと秦氏自体は遼東半島付近から渡来した海人集団の総称と考える説もあり、それを束ねていたのが社家であり、秦酒公であったとも考えられる。この秦酒公が庸調として朝廷に絹縑を充ち積むほどに献じたことから、禹豆満佐の姓を賜ったとされている。これは平安時代初期の弘仁6年(815)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑である新撰姓氏録に記されている。
さらに、伏見稲荷大社 その2の項で触れた秦大津父が現れるのは、欽明天皇の時代(539~571年)であったから、秦酒公から1世紀くらい後の歴史である。そして広隆寺を建立した秦河勝は6世紀後半から7世紀半ばにかけて、太秦を本拠地として活躍したとされている。河勝は秦氏の族長的人物であり、富裕な商人で朝廷の財政に関わり、聖徳太子のブレーンになっていた。また、その財力により平安京の造成に関わったという説もある。高い技術を備え、経済的にも恵まれていた秦氏が聖徳太子の死後、政治の場に現れなくなっていく。林屋辰三郎は先の「京都」で秦氏の全勢力を造都のために使い果たし、その犠牲によって衰亡していったと見ている。新興貴族であった藤原氏と結び、帝都経営の実際を担うことを目指した。そこには政治的進出を図る意思があったとも思われる。そして思惑通りに平安京初頭の実務担当者へ秦氏は進出していった。しかし後の歴史を振り返ると、最終的には藤原氏の世界に移行していっている。そういう意味でも、秦氏は政治進出を目指し造都のために財力を費やしたものの、その後の政治的地位を保つことができずにやがて衰退していったともいえる。
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