徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

伏見稲荷大社 その2



伏見稲荷大社 その2(ふしみいなりたいしゃ) 2009年1月11日訪問

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伏見稲荷大社 楼門

 2011年11月にねりこべ地蔵の項を書いて以来、3ヶ月間以上お休みしてしまいました。今年の年末年始はいろいろなことがあった。そんな多忙な中でも結局延4日間京都を訪れることが出来たのは大収穫であった。深草から伏見、桃山そして竹田と第46回京の冬の旅の非公開文化財特別公開を巡った。お休み期間が長かったのは、この訪問の下準備と撮影した写真等の後片付けに結構な時間を費やしたためともいえる。

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伏見稲荷大社 一の鳥居と楼門

 2回目の石峰寺訪問も拝観時間が過ぎていたため、今回も山門前からの夕日を眺めるのみであった。再び伏見稲荷大社に戻り、日没までの僅かな時間で三ツ辻あるいは四ツ辻あたりまで巡ることとする。
前回の伏見稲荷大社を訪問した時も時間があまりなく、確か楼門、本殿を拝観し千本鳥居を潜り、奥社奉拝所まで到達するのがやっとだった。今回はもう少し奥まで進むことが出来そうだが、一ノ峯まで廻るにはもっと早い時間に訪れなければならない。

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伏見稲荷大社 左狛狐
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伏見稲荷大社 右狛狐

 伏見稲荷大社は二十二社の上七社(伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂別雷神社・賀茂御祖神社・松尾大社・平野神社・伏見稲荷大社・春日大社)の一社で、旧社格は官幣大社。伏見稲荷大社の公式HPによると、全国3万社もあると言われるお稲荷さんの総本宮となる。このHPには詳細な沿革が記されている。伊奈利社創祀前史として秦大津父の事績から始まっている。日本書紀によると、応神天皇14年(283)に弓月君が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したのが秦氏の基となったとされている。または加羅(伽耶)あるいは新羅から来たのではないかとも考えられているが、いずれにして秦氏は渡来系氏族であったことは確かなようだ。

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伏見稲荷大社 舞殿
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伏見稲荷大社 舞殿と楼門

 当時の都である大和に住んでいた秦氏も、時代とともに、山背国葛野郡(京都市右京区太秦)、同紀伊郡(京都市伏見区深草)や河内国讃良郡(大阪府寝屋川市太秦)など各地に展開し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えていく。既に嵐山の町並みでも触れたように、山城国葛野の太秦あたりに定住した秦氏は、湿潤な地域の土地改良のため桂川に大堰を造り、河川の水量を調整することにより、大規模な開拓と耕地への灌漑が可能になった。また法輪寺の寺域には三光明星尊を祀った葛野井宮が古墳時代からあり、これが秦氏の入植により氏族守護の祖神となっている。さらに大宝元年(701)勅命により秦忌寸都理が社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移した松尾大社がその下流に建てられている。推古天皇11年(603)または同30年(622)頃に秦河勝によると考えられている広隆寺も創建されている。

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伏見稲荷大社 拝殿

 日本書紀によると秦大津父は、欽明天皇の時代に伴造となり大蔵掾すなわち朝廷の財務官僚に任ぜられたとされているが、これは松尾大社や広隆寺そして伏見稲荷大社が創建される以前の歴史である。当時の欽明天皇紀には、朝鮮半島に関する記述があふれている。そして朝鮮半島の拠点となっていた任那が滅んだのも欽明天皇の時代とされている。欽明天皇2年(541)友好関係を結んでいた百済の聖明王は任那復興を名目に新羅討伐に乗り出すが、同15年(554)に新羅との戦いで敗死する。そして同23年(562)に大伽耶は新羅によって滅ぼされている。
 聖明王は日本の朝廷と親密な関係を築くためか、欽明天皇6年(545)に丈六の仏像を造り天皇が徳を得て支配する諸国が幸いを受けるように祈願したとされている。そして同13年(552)には仏教が日本に公伝されている。既に渡来人による私的崇拝などが行われてきたが、聖明王が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したとされる公伝は、日本書紀では欽明天皇13年(552)、上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起并流記資財帳においては宣化天皇3年(538)の戊午の年と考えられている。いずれにしてもこの時期に大陸から仏教が伝わってきたことは確かである。
 天皇は新たな宗教を取り入れるべきか、群臣に是非を問うている。蘇我稲目は西国の人々が皆礼拝しているのならば崇仏を是としたのに対して、物部尾輿と中臣鎌子は蕃神礼拝につながるとして廃仏を奏上している。この仏教受容問題は権力闘争と結びつき、蘇我入鹿と中臣鎌足に象徴される氏族間の争いにつながっていく。用明天皇の第二皇子である聖徳太子は、欽明天皇の皇女の穴穂部間人皇女を母として敏達天皇3年(574)に生まれている。仏教に深く帰依し、後に四天王寺を建立する聖徳太子は、欽明天皇の孫にあたる。そして太子とともに崇仏派を率いた蘇我馬子も稲目の子であり、大化の改新の蘇我蝦夷は稲目の孫にあたる。このような歴史の流れの中で日本に仏教が伝来したのである。

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伏見稲荷大社 東丸神社の鳥居と荷田東満邸跡
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伏見稲荷大社 お茶屋

 再び話しを秦大津父に戻す。伏見稲荷大社の伊奈利社創祀前史によると、即位前の欽明天皇は、「秦大津父という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができる」という夢をみたそうだ。天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦大津父が実在していた。天皇は大いに喜び、大津父を呼び寄せられ、今までに何事かなかったかと問われた。大津父は伊勢に商いに行っての帰り道、稲荷山にさしかかったところで二匹の“おおかみ”に出会った話をしたとされている。

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伏見稲荷大社 千本鳥居

 血を出しながら争う二匹の“おおかみ”を見つけた大津父は、馬を降り、口を漱ぎ、手を洗った後、“おおかみ”に無益な争いを言い聞かせた。そして血をぬぐって山へ放してやったため、二匹とも命を全うできたと天皇にお答えした。天皇は夢で見たとおりの大津父に会えたのも、神のおかげであろうと仰せられ、彼を厚く遇せられた。大津父が二匹の“おおかみ”に出会ったのは稲荷山南麓の大亀谷だと考えられる。おそらく六地蔵から八科峠を登り深草へ至る途中で生じた出来事だと思われる。
先に触れたように、秦氏は養蚕や機織などの技に秀でていた一方、大津父が大蔵掾に任官されたことからも計数に明るかったようだ。秦氏に限らないことだが、当時の先進地域である大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたらした渡来系氏族は、後の律令国家建設のために大いに役立ったと考えられている。記録、出納、徴税、外交事務それから文字を使用する業は、これらの氏族で占められ、彼等の技能は高く評価され、良い処遇が与えられていた。

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伏見稲荷大社 千本鳥居

「伏見稲荷大社 その2」 の地図





伏見稲荷大社 その2 のMarker List

No.名称緯度経度
01  伏見稲荷大社 楼門 34.9671135.7726
02  伏見稲荷大社 外拝殿 34.9671135.7728
03  伏見稲荷大社 本殿 34.9671135.7732
04  伏見稲荷大社 荷田東満邸跡 34.9668135.7726
05  伏見稲荷大社 東丸神社 34.9667135.7728
06  伏見稲荷大社 お茶屋 34.9666135.7731
07  伏見稲荷大社 千本鳥居 34.9667135.775
08   伏見稲荷大社 奥社 34.9664135.7755

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コメント

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