妙心寺 大心院
妙心寺 大心院(だいしんいん) 2009年1月12日訪問
桂春院の山門を出て、再び法堂を目指して進む。途中には大雄院、養徳院、蟠桃院、海福院そして雑華院の山門が並ぶが、いずれも開門しているものの非公開のため中に入ることはできない。雑華院の山門の斜め前には妙心寺の小方丈の山門があるようだ。さらに南に進むと、東に入る路地を越えた先に東海庵と大心院の山門が向かい合うように建てられている。
大心院は、室町時代の文明11年(1479)あるいは明応元年(1492)に、足利幕府管領の細川政元が、景堂玄訥を開山、勧請開山を景川宗隆として創建した寺院とされている。創建時期が明らかでないのとともに、創建された場所も諸説あるようだ。もとは相国寺の西にあったとする説。現在でも上御霊前通と新町通が交差するあたりに大心院町という地名が残っている。妙心寺の公式HP(https://vinfo06.at.webry.info/201003/article_1.html : リンク先が無くなりました )にも上京清蔵口が記されている。すなわち現在の上清蔵口町や下清蔵口町は、先の大心院町の北側あたりになる。また上記のHPには妙心寺山内説も併記されているが、山外にあった時期もあったことは確かなようだ。大心院は応仁の乱(1467~77)の終結後に建立された寺院である。
開基の細川政元は、文正元年(1466)細川勝元の嫡男として生まれている。文明5年(1473)応仁の乱の最中に東軍を率いていた細川勝元が没する。政元は東軍の大将・勝元の後継者として、わずか8歳で家督を相続し、丹波・摂津・土佐守護に就任する。元服前は分家の典厩家当主細川政国の補佐を受けた。文明6年(1474)西軍方の山名政豊と和睦する。文明10年(1478)元服し、8代将軍足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。この時、管領に任じられたが、短期間で辞職している。
明応2年(1493)に起こった第10代将軍・足利義材の廃立事件、すなわち明応の政変に乗じ、足利義高を第11代将軍に就任させ、政元は管領に就任している。将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳るに至る。そして細川京兆家の全盛期を築き、最大勢力となる。この細川京兆家の繁栄は、室町幕府における将軍の権威を完全に失墜させることにもつながり、戦国時代の始期ともされている。
修験道に没頭した政元は、一生独身を貫いた。そのため実子はおらず、養子に澄之、澄元、高国を迎えている。しかし3人の養子を迎えたことで家督争いが起こり、自らもその争いに巻き込まれることとなる。永正4年(1507)邸内の湯屋に入ったところを家臣に暗殺される、いわゆる永正の錯乱が発生する。細川政元の戒名は、大心院殿雲関興公大禅定門で墓所は父勝元と同じ龍安寺にある。 大心院が創建されたとされている文明11年(1479)は政元が元服をした翌年に当たり、明応元年(1492)は明応の政変の前年となる。恐らく政元が権勢を伸ばしていく過程で、大心院は創建されたのであろう。
大心院の開山である景堂玄訥は、妙心寺10世景川宗隆の法を嗣いだため、勧請開山を景川宗隆としている。景川宗隆は、応永32年(1425)伊勢に生まれる。雲谷玄祥、義天玄詔、桃隠玄朔らに師事した後、龍安寺の雪江宗深の法を嗣ぐ。大徳寺、妙心寺、龍安寺の住持をつとめる。明応9年(1500)76歳で入寂。諡号は本如実性禅師。後に触れることとなるが、細川政元は文明13年(1481)景川和尚を開山として龍泉庵も建立している。
細川政元の死後、大心院は荒廃する。そして天正年間(1573~93)に入り、大心院5世芳沢祖恩の時、細川幽斎により現在地の妙心寺内に移転され、妙心寺の塔頭になる。
戦国武将で歌人の細川藤孝(幽斎)は天文3年(1534)足利将軍家の連枝・三淵晴員の次男として生まれ、晴員の実兄の和泉半国守護細川元常の養子となっている。藤孝の継いだ和泉上守護家は、細川勝元、政元を輩出した京兆家とは異なる。また肥後細川家は藤孝の長男でありガラシャの夫である細川忠興が継ぎ、和泉上守護家の家督は三男の幸隆に譲っている。
藤孝は初め13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍足利義昭擁立に尽力する。後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となる。天正10年(1582)本能寺の変が起こると、友人である明智光秀の再三の要請を断り、家督を忠興に譲り、剃髪して幽斎玄旨と号して田辺城に隠居している。細川幽斎とともに筒井順慶にも参戦を断れた光秀は山崎の戦いで敗死している。変の後、千利休らと共に秀吉側近の文化人として寵遇されるが、秀吉の死後は徳川家康に接近している。そして関ヶ原の戦いにおいて、家督を継いだ細川忠興は前線で石田三成の軍と戦い、幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺城を守ることとなる。
幽斎は三条西公条から歌道の奥義を託された古今伝授の継承者であった。幽斎の弟子の一人である八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇も籠城する幽斎が討死することで、古今伝授が途絶えることを恐れた。八条宮は使者を遣わして開城を勧めたが、幽斎はこれを謝絶している。「古今集証明状」を八条宮に、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を朝廷に献上するとともに、討死の覚悟を伝えたとされている。ついに後陽成天皇は勅使を田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じるに至った。
大心院の現在の方丈とその玄関は、寛永年間(1624~45)に建てられている。再び妙心寺の公式HP(http://www.myoshinji.or.jp/k/root3/7.html : リンク先が無くなりました )では寛永11年(1634)蒲生家の援助を得て嶺南崇六が再興をなしたとされているから、その時期に建立されたのであろう。ただし蒲生忠知ではなく、ここでは蒲生家としている。慶長17年(1612)に亡くなった蒲生秀行には、忠郷、忠知の2人の男子がいた。蒲生氏会津藩2代藩主は兄である忠郷が継いだが、寛永4年(1627)に疱瘡が原因で父と同じく早世している。忠郷に子がいなかったため、家督は弟の忠知が相続することとなった。しかし会津60万石から伊予松山24万石に減移封されている。忠知の治世は良好で、寺院の建築や移築を行うなどの治績を残している。寛永11年(1634)参勤交代の途上、京都の藩邸で急死する。享年31。死因は不明だが、兄の忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われている。忠知も嗣子が無かったため、蒲生氏は今度こそ断絶となった。寛永11年(1634)は、蒲生忠知が京で急死した年にあたる。この時期に大心院の再興が蒲生家によって行われたことは、忠知の供養と考えるべきだろうか?いずれにしてもこの後、蒲生家は廃絶しているから、そのような財政的な余裕がなくなったであろう。 嶺南崇六は天正11年(1583)日向に生まれている。妙心寺の芳沢祖恩に印可を受ける。日向飫肥藩主伊東祐慶が建立した江戸の東禅寺の開山となり、後に妙心寺の住持を務める。寛永20年(1643)入寂。61歳。ちなみに、幕末の東禅寺にはイギリス公使館が置かれていたことから、文久元年(1861)イギリス公使オールコックが水戸藩脱藩浪士に襲撃される事件、すなわち東禅寺事件の舞台となっている。
大心院の山門は西に向かって設けられている。この山門を潜ると比較的広く白砂を敷詰めた前庭が現れる。山門の正面には方丈とその玄関が見える。方丈玄関の手前には、視線を遮る様に松が植えられている。このアイストップとなっている松を左側から迂回するように延段が敷かれている。順路に従うと、庫裏の玄関から入り方丈南庭に出ることとなる。方丈南庭は「切石の庭」と呼ばれる中根金作が作庭した庭である。この後に訪問する予定の退蔵院庭園・余香苑が昭和39年(1964)の作品であることを思うと、それよりは少し新しい庭のように思える。 南庭の奥行きはそれ程深くない。GoogleMapを見れば分かるように、この南庭の築地塀の裏側には玉鳳院の開山堂が建てられている。このような位置関係であるため、奥行きのある庭を造ることができなかったのであろう。また大心院の方丈南庭の東側には祖堂が建てられている。この堂宇の建立は寛文6年(1666)とされ、一時期妙心寺に売却されたものが2003年に返却されたという経緯を持つ。そのためか比較的近年に改修されたようにも見える。この方丈南庭が作庭した時に祖堂は既にこの場所に存在していたかは、説明を受けていないため確認が取れていない。
この庭の基本的な構成は、苔地と白砂で表現された州浜である。緩やかな曲線で州浜を創ることで、狭苦しくない、ゆったりした印象を与える庭となっている。
しかしこの庭を強く印象付けているものは、方丈の縁の近くに敷かれた切石の延段である。この存在により、庭の構成は横への方向性を強烈に作り出している。この延段は単なるアクセントではなく、方丈の外部から祖堂へと続く参道という機能が与えられている。方丈を囲む築地塀には、方丈の西横と南庭の比較的西側の2箇所に木戸が作られている。特に南庭西側の木戸から直角に延段に向かって切石を伸ばし、逆T字型になっている。また方丈南庭の中央部には延段に呼応するように方形の石造の花壇が設えられている。残念ながら今回訪問したときには枯れ果てていた。この花壇のやや左側には丸い井戸が置かれている。これが方形の花壇の堅さを和らげている。このあたりから次第に石組みが増えてくるように見える。
方形のオブジェを庭の中心に配置し、苔地と白砂によって作られる州浜の中を直線的な延段で分割していく手法は、やはり中根金作の作庭による御香宮神社庭園にも見られる。
祖堂と方丈と宿坊と使用されている大書院の3つの建物に囲まれた部分に「阿吽の庭」が築かれている。祖堂に面する部分に生垣を廻らしていることから、この庭は書院からの眺めるように作られている。「切石の庭」の州浜の緩やかな曲線に比べ、やや細かな曲線をつなぐ形に変わり、石組みも増えていることから、動きのある庭となっている。祖堂の北側に植わっている巨木が、この庭の圧倒的な存在となっている。この樹木と東南隅に築かれた築山とそれを強調する石組みにより、縦方向の動きが見えるようになっている。
書院の東面にも新しい庭が作られているが、その先の墓地の目隠し役となっているのが残念である。
お世話になっております。
BSジャパンでテレビ番組を制作しております掛塚と申します。
この度、当番組で宿坊についてご紹介する予定です。
そこで、
こちらに掲載されている妙心寺のお写真を使用させていただきたいのですが
お借りしてもよろしいでしょうか?
お忙しい中、大変恐れ入りますがご検討の程宜しくお願い申し上げます。
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