妙心寺 退蔵院 その2
妙心寺 退蔵院(たいぞういん) その2 2009年1月12日訪問
大心院を後にして、通年公開されている最後の塔頭である退蔵院を目指す。東海庵と玉鳳院の間を進むと、正面に衡梅院が現れる。今回、衡梅院も第42回京の冬の旅の非公開文化財特別公開で公開されているが、後で訪れることとする。ここを右に曲がると、法堂と仏殿が見える。退蔵院はその先に並ぶ朱塗りの三門の西側にある。前回訪問した際には、元信の庭に気を取られたためか、帰った後で確認すると方丈南庭を撮影した写真がなかった。今回は前回に撮影できていなかった場所を中心に見て行くこととした。
退蔵院の山門を潜ると、禅寺特有の反り屋根の庫裏とは異なり、緩やかなむくりの付いた屋根をもった庫裏が迎えてくれる。拝観受付で確認すると方丈を修繕しているため、庭に足場架けられているとのこと。京都の寺社を訪れると必ずどこかで改修工事と出会う。特に法然上人800年大遠忌と親鸞上人750年大遠忌が、2012年にあたるため浄土宗と浄土真宗の寺院の工事は多い。そのため、これらの宗派の寺院への訪問は、なるべく大遠忌終了後に行うようにスケジュールを組んできた。それ以外の宗派でも寺院の数が多く、どこかで考えてみなかった工事にであってしまう。手入れを行わないと昔の姿で保存しておくことが困難であることは理解しているが、いざ工事に出くわすとやはり失望感は大きい。それならば拝観料を一部軽減するのも検討するべきかと思うが、なかなかそのような寺院に巡り合うことがない。
退蔵院の創建とその変遷には、不明確な部分があるようだ。
応永11年(1404)越前の豪族・波多野重通が、深く帰依していた妙心寺第3世住持無因宗因を開山として千本通松原に創建したのが退蔵院の始まりとされている。妙心寺の公式HP(http://www.myoshinji.or.jp/k/root2/3.html : リンク先が無くなりました )も、応永11年(1404)開山・無因宗因、開基・波多野重通で下京の波多野義重邸内に創建されたとしている。また寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会の退蔵院には下記のように記されている。
退蔵院〔当山三世無因宗因和尚開基す、又日峯和尚中興す。初め波多野出雲守無因の為に建立し、庭中は画聖古法眼元信の作なり、他に此類少し〕
波多野氏は藤原秀郷の玄孫にあたる経範が、はじめて波多野を称したとされる。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領としていた。そして承久の乱の終結後、関東御家人の多くが恩賞地を得て西遷していった。波多野氏の一族も大槻氏が和泉国、菖蒲氏が石見国、松田氏が出雲国へ。そして波多野義重は越前国比志庄に移ったとされている。この義重の流れは、かれが出雲守であったことから波多野出雲と称している。義重は曹洞宗の道元禅師を所領の比志庄に迎え、永平寺を建立している。また波多野出雲氏は京において六波羅探題評定衆を務めている。評定衆は、訴訟裁判や六波羅の政務を担当する重職である。
退蔵院を創建した波多野重通は越前に入った義重の孫に当たる。重通も時宗四条派の開祖である浄阿上人真観を庇護している。
無因宗因は正中3年(1326)尾張の平氏・荒尾一族に生まれる。9歳で建仁寺塔頭・可翁宗然の室に入り、出家する。正平16年(1361)妙心寺2世授翁宗粥の室に入り、建徳2年(1371)印可を受け、天授7年(1381)には妙心寺3世となる。大徳寺への誘いを断り、応永3年(1396)摂津国西宮の海清寺を創建する。応永8年(1401)同寺の光澤庵で入寂。
波多野重通が応永11年(1404)に退蔵院を創建した時、妙心寺は深刻な状況にあった。
室町幕府初期の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、権力基盤は必ずしも強固なものではなかった。足利義満が3代将軍に就任すると、将軍家への権力の集中化を計り、花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強していった。あわせて既成勢力となっていた有力守護大名の弱体化を図るため、守護大名の相続問題への介入や討伐を積極的に行ってきた。
康暦元年(1379)細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させる(康暦の政変)。康応元年(1389)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下している(土岐康行の乱)。そして明徳2年(1391)11カ国の守護となっていた山名氏の分裂を仕掛けている。山名時熙と氏之の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせ、その上で時熙と氏之を赦免して氏清と満幸を挑発する。氏清と満幸は挙兵に追い込まれ、氏清は内野合戦で討死、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。山名氏は3カ国を残すのみとなってしまった(明徳の乱)。
そして応永6年(1399)和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし堺に籠城する。応永の乱は大内義弘の討死、大内氏は政治的影響力を失うことで集結する。乱の戦後処理により、妙心寺第6世住持の拙堂宗朴は大内義弘と関係が深かったため青蓮院に幽閉、妙心寺は寺領没収、龍雲寺と改名させられた。
妙心寺を去る者もある中、上記のように無因宗因は大徳寺への誘いを固辞して西宮の海清寺に隠棲していた。このような時期に退蔵院が創建されたため、妙心寺の境内ではなく千本通松原に創建されたと思われる。
永享4年(1432)妙心寺は将軍家から日峰宗舜に返還される。日峰宗舜によって退蔵院が妙心寺山内に移されたのは、長禄年間(1457~60)以前のことと考えられている。一説には当時霊雲院東の地にあったとされているが、のち東林院の東に位置し、永正年間(1504~21)中興祖亀年禅愉によって現在地に移されている。
妙心寺を復興させ、退蔵院を山内に移した日峰宗舜は、応安元年(1368)に京に生まれている。15歳の時に天龍寺で出家・得度し、その後は諸国をめぐり摂津国海清寺の無因宗因に師事して参禅している。無因の没後、応永22年(1415)尾張国犬山の瑞泉寺を開創する。永享元年(1429)荒廃していた妙心寺に請われて入寺し、養源院などを建てて妙心寺の復興に尽力する。文安4年(1447)勅命により大徳寺の住持となるが、翌年、養源院で入寂。日峰宗舜は、師である無因宗因が開山した寺院を自らが再興した山内に移したこととなる。
その後に発生した応仁の乱(1467~77)で退蔵院も焼失している。乱の後に退蔵院を再建したのは、亀年禅愉とされている。前述のように永正年間(1504~21)に現在地に移されたと考えられている。
亀年禅愉は生年不詳、山城の人。建仁寺の月舟寿桂、雪嶺永瑾に学ぶ。妙心寺の大休宗休の法を嗣ぎ、妙心寺34世住持となる。後奈良天皇の帰依を受け、照天祖鑑国師の号をおくられた。永禄4年(1562)入寂。
退蔵院の薬医門を潜ると、退蔵院の額が掛かる庫裏に向かって進む。額の下の戸は閉められており、その左脇の庫裏玄関も閉ざされている。拝観者は庫裏の南面を進み、方丈玄関に至る。退蔵院の方丈玄関は曲線ではなく5本の直線で結んだ形式となっている。このような折板状の屋根を袴腰造りと呼び、茶道石州流の祖片桐石州の発案した様式だとも言われている。この玄関は江戸初期の富豪比喜多宗味により寄進されたもので、法要儀式その他高貴な人々の出入り以外には使用されていなかったらしい。現在は退蔵院を訪れる人はこの門を通って方丈に向う。前回、上手に撮影ができなかった袴腰造りの門も、今回は修繕対象に入っているため外観を眺めることさえできなかった。工事中の方丈は完全に足場が架かり、附玄関だけでなく建物全体がすっぽり覆われている。また斜めに控えを取るため、庭にも足場が下りている。
こんな建物外の状況にもかかわらず、方丈の内部には国宝に指定されている瓢鮎図の複写が置かれている。オリジナルは京都国立博物館に寄託されている。 瓢鮎図の「瓢」は瓢箪を表し、「鮎」は「あゆ」ではなく「なまず」を意味する。「鯰」は日本固有の文字であり、中国由来の「鮎」で表記されているためである。画面上部には大岳周崇の序と玉畹梵芳など30人の禅僧による画賛が書かれ、下部には、水流の中を泳ぐなまずと、瓢箪を持ってそれを捕らえようとする一人の男が描かれている。大岳周崇の序から、この作品は「大相公」が如拙に命じて、「座右之屏」に「新様」をもって描かせたものであることが分かる。「大相公」は第4代将軍足利義持を指し、「新様」とは「南宋の新しい画法」を意味するものと考えられている。そして現在は上下をつないだ掛軸装となっているが、元は義持の「座右之屏」の表裏に絵と賛が分けられていたとされている。この絵の制作年代については、賛者から応永20年(1413)前後と考えられている。瓢鮎図は南宋院体画の影響を強く受けているものの、日本の初期水墨画を代表する作品となっている。
如拙は南北朝時代から室町時代中期にかけて活躍した画僧であった。等持寺や相国寺の住持を務めた絶海中津が「老子」の「大巧は拙なるが如し」に因んで名づけたといわれている。教科書に掲載されるほど有名な国宝絵画を描いた画家にしては、その来歴が明らかになっていない。しかし、足利将軍家と密接な関係を持ち、相国寺にいたことは確実とされている。同じく相国寺の画僧雪舟に祖と仰がれていた。また序を書いた大岳周崇も等持寺や円覚寺などで修行した後、応永9年(1402)に京都相国寺の住持となっている。どのような経路を辿って室町将軍家の持ち物が相国寺ではなく、応永の乱で大内義弘に加担した妙心寺の塔頭にもたらされたのだろうか?非常に興味深い。
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