等持院 その3
臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院(とうじいん) その3 2009年1月12日訪問
等持院には3つの庭がある。方丈を挟んで南側に南庭、北側に2つの庭がある。南庭は、比較的禅宗寺院の南庭の様式を守り、門の両脇に石組みと樹木を配する形になっている。本来ならば唐破風を持つ勅使門として置かれるところに、棟門と言うべきなのか簡潔な門が造られている。その位置も方丈の中心からかなり西側に設けられている。方丈の縁なので欄干などはなく、南庭に下りる段もない。そのため、建物の中心線から外れた位置に門を配しても、それほど違和感がないのかもしれない。膨大な情報を基に纏められている京都風光・京都鴨川風光によると、この庭は、臨済宗天龍寺派管長の関牧翁が作庭及び整備を行ったとされている。
関牧翁は昭和3年(1928)岐阜県瑞巌寺で得度、天龍寺で関精拙老師から法を嗣いでいる。昭和14年(1939)天龍僧堂師家となり、昭和21年(1946)天龍寺241世と天龍寺派8代管長に就任している。平成3年(1991)87歳で寂。この庭は昭和というよりは、恐らくは戦後に今の形になったのではないだろうか。勿論、都名所図会や都林泉名勝図会等には、この方丈南庭の記述や図絵がない。
財団法人京都市都市緑化協会の公式HPに掲載されている「京の庭を訪ねて」の等持院庭園では、北庭の構成について詳細に記されているものの、南庭については一切触れられていない。
方丈北庭は足利尊氏の墓とされている宝筐印塔を境にして、東西2つの池と共に庭は分かれている。東の池を心字池、西の池を芙蓉池と呼んでいる。2つの池を流れがつなぎ、西の芙蓉池からの水が、東の心字池に流れ込んでいる。
現在の等持院の順路に従うと最初に西側の芙蓉地を中心とした庭に入って行く。方丈の北面そしてこれに連なる書院の東面、そして茶室の清漣亭の南面の3つに囲まれた庭となっている。すなわち3つの建物から異なった景色を鑑賞できるように作庭されていると考えてよいだろう。またこの西庭は衣笠山の傾斜に沿って造られているため、立体的な構成となっている。庭園内で一番高い場所に清漣亭を築いているため、芙蓉地を眼下に見下ろす構成となっているのは、例えば東山の傾斜面に造られた知恩院方丈庭園や智積院の庭園と比較しても回遊性を強く打ち出した構成となっている。芙蓉池の中島には2つの石橋があり、かつてはもう1つ土橋が架けられていたようだ。また、中島の中にも飛石が据えられているので、おそらく茶事の際に、方丈より飛石伝いに中島を渡り、清漣亭に向うことも想定していたのであろう。神仙や蓬莱山といった神聖なものとして、中島を設えていた中世期の作庭にないものと考えられる。元の作庭時期は分からないものの、中島に飛石を据えたのは、慶長11年(1606)の再興の前後に庭の改修として行ったと考えるのが妥当なようだ。
寛政11年(1799)年に刊行された都林泉名勝図会に収められている図絵には、この西庭の全貌が描かれている。方丈の裏側には書院が描かれていないようだ。確かに橋も3本見ることができ、飛び石は中島を横切り方丈から清漣亭までつないでいる。
これに対して東側の心字池を中心とした庭は、平面的で曲線を強調した造形となっている。心字池とは、「心」字のような形をなしている池全般を指し、必ずしも心の字に読めなくても良いようだ。むしろ、池の中に中島を配し、岸辺から眺めても全形が見えないような複雑な形の池をいうこともあるようだ。いずれにしても鎌倉から室町時代に成立した庭によく見られる形式である。この庭は芙蓉池を中心とする西側の庭と比較すると大人しい印象を受ける。特に等持院の順路に従うと、尊氏の墓を起点とし、方丈北面を行き、書院東面を上る。そして清漣亭から芙蓉地を見下ろした後に、徐々に下った先に東庭が現れるという構成になっている。そのため印象としてはあまり強くはない。この部分の庭は、室町時代の作庭をうかがわせるため、開山の夢窓疎石が作庭したという説もある。室町時代の記録と充分に整合していない点もあり、上記の「京の庭を訪ねて」でもはっきりしたことはわかっていないとしている。
心字池には蓬莱島と2つの亀島があり、蓬莱島には戦前まで妙音閣という楼閣があったとされている。昭和25年(1950)のジェーン台風で倒壊している。この事は水上勉の「私版京都図絵」(中央公論社・新編水上勉全集第14巻 1996年刊)に以下のように記されている。
竺源師は、隠寮から、北へ奥まったところにオンドル式の別宅を建てられて、そこで、陶芸をはじめられ、五百羅漢像や、仏前に供える茶碗を焼かれるのが楽しみで、私たちもよく手つだわされた。五百羅漢は、たしかに五百体はあって、出来あがったものは、霊光殿うらの「心字池」の中央にあった「明音閣」に安置された。明音閣は朱ぬりの二階建てで、方形の屋根が金閣のように羽をひろげた形を美しくみせて、池面に影をうつしていた。
水上勉は明音閣と記しているが、音が同じである妙音閣であったようだ。先の都林泉名勝図会を再び見ると、この図絵には東庭が描かれていないことに気付く。やはり名所図会として華やかな空間構成である西庭に着目した結果かもしれない。そして方丈の北東に置かれている足利尊氏の墓も見ることができない。これは何を意味しているのだろうか?後世にこの場所に移してきたということなのか。この尊氏の墓と謂われる高さ五尺の宝筐印塔には、延文三年四月と刻まれている。延文3年(1358)4月とは足利尊氏が亡くなった4月30日を示しているのかもしれない。いずれにしても、方丈北東の位置は、最初に墓所とするのには適当な場所とは思えない。もう少し高い場所にあったのではないだろうか?清漣亭と心字池につなぐ順路の途中には、足利十五代供養塔とされる十三重塔がある。
借景となる衣笠山の山裾が開発されたため、庭からは山が見えない状況になっている。樹木で周囲の建物を無理に隠しているため、もはや都林泉名勝図会のような姿を期待することができなくなっている。立命館高等工科学校が開校したのが昭和13年(1938)で、その翌年に愛新覚羅溥儀より50万円の寄付を受けた立命館大学は、そのうち20万円で衣笠に約6万坪の土地を購入している。そして立命館高等工科学校を立命館日満高等工科学校に改組し、現在の衣笠キャンパスに開校したのは、昭和14年(1939)頃であった。既に戦前から等持院から衣笠山にかけての景観は変わりつつあったことが分かる。そして、きぬかけの路推進協議会の公式HP「きぬかけの路」によると、等持院と衣笠山の関係を断ち切ることとなる「きぬかけの道」は昭和38年(1963)に開通している。
「きぬかけの路」は正式には「市道衣笠宇多野線」といい、現在の愛称が付けられるまでは「観光道路」と呼ばれていました。
これらの変化により、衣笠山から池に引いていた水路も絶たれ、現在の池の水は井戸水をくみ上げて循環させている。
「等持院 その3」 の地図
等持院 その3 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 等持院 表門 | 35.0313 | 135.7235 |
02 | ▼ 等持院 庫裏 | 35.0315 | 135.7234 |
03 | ▼ 等持院 方丈 | 35.0314 | 135.7236 |
04 | ▼ 等持院 霊光殿 | 35.0314 | 135.7239 |
05 | ▼ 等持院 書院 | 35.0316 | 135.7234 |
06 | ▼ 等持院 清漣亭 | 35.0318 | 135.7235 |
07 | ▼ 等持院 方丈南庭 | 35.0313 | 135.7236 |
08 | ▼ 等持院 方丈北庭 芙蓉池 | 35.0316 | 135.7236 |
09 | ▼ 等持院 方丈北庭 心字池 | 35.0316 | 135.7242 |
10 | ▼ 等持院 方丈北庭 蓬莱島 | 35.0315 | 135.7243 |
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