文書と写真・地図による「記憶」の再現

等持院



臨済宗天龍寺派 萬年山 等持院(とうじいん) 2009年1月12日訪問

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等持院 方丈南庭の正面を眺める

 広隆寺の楼門の前にある太秦広隆寺駅から京福電気鉄道嵐山本線に乗車し、ひとつ西の帷子ノ辻で北野線に乗り換える。ここより北野白梅方面に向かい、7つ目の等持院駅で下車する。
 衣笠山を目指し、100メートルくらい住宅街の中を進むと、道の前方に江戸時代に建立された一間一戸、切妻造本瓦葺の小ぶりな薬医門が現れる。門に掲げられた万年山等持院の文字を見逃すと、足利将軍家累代の菩提寺とは思えないほど質素な山門である。この山門の前には、現在でも石橋が架けられているが、すでに欄干の両側は埋め立てられ橋の機能を失っている。以前は境内の周囲に堀を廻らしていたのかもしれない。しかし住宅地の中の寺院となってしまった現在、往時の面影を思い起こすことが困難になりつつある。

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等持院 山門 門前に石橋の跡が見える
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等持院 味気ないコンクリート製の門柱が現れる

 等持院は臨済宗天龍寺派に属し、山号を萬年山と称している。
 最初に、暦応4年(1341)足利尊氏は現在の京都市中京区柳馬場御池付近に「等持寺」を建立したとされている。これについては諸説あるようだ。尊氏は暦応元年(1338)に光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府を開闢している。その翌年の暦応2年(1339)には、後醍醐天皇が吉野で崩御されている。そのような政治状況の中で、康永2年(1343)衣笠山の山頂にあった寺院を譲り受け、別院北等持寺を建立したとされている。

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等持院 墓地の手前にマキノ省三先生像が建つ

 元から衣笠山にあったとされている寺院は弘安9年(1286)無学祖元の遺髪を納めるために建立された正脈庵と考えられている。正脈庵を建立したのは、無学の弟子で京都尼五山筆頭の景愛寺住職であった無外如大尼。無外如大尼は鎌倉幕府の有力御家人であった安達泰盛の娘であり、霜月騒動に連座した金沢顕時の妻で本名は千代野であると伝えられている。
 無外如大尼没後、正脈庵も崩壊に瀕し、無学祖元の法孫である夢窓疎石が暦応5年(1342)足利尊氏の執権高師直、尊氏の弟の足利直義の外護を受け、正脈庵の地に七堂伽藍をはじめ厖大な寺院を建立し、無学祖元を勧請開山、無外如大尼を勧請開基としている。さらに無学祖元初住の中国浙江省台州真如寺に倣い、寺号も真如寺と改めている。夢窓国師が第二世として真如寺に入寺し、室町幕府が制定した五山十刹制度の第三位としている。現在の真如寺は等持院の東側に位置し、臨済宗相国寺派に属している。そして等持院と同じ山号である万年山を称している。

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等持院 立派な松と簡素な表門
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等持院 庫裏の屋根

 このように等持院の歴史は、京都十刹の第一位の等持寺や第三位の真如寺と関係が深い。また等持寺自体も康永元年(1342)頃まで「等持院」と称していたこと、そして室町時代末期に廃寺となったことが、話をさらに複雑にしている。いずれにしても、場所を改めて等持寺や真如寺について纏めてみる必要があるだろう。

 延文3年(1358)足利尊氏は、庶子である足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第にて死去する。葬儀は東陵永璵を導師として別院北等持寺で執り行われ、この地が尊氏の墓所となった。導師を務めた東陵永璵は元からの渡来僧であり、無学祖元の甥の子でとされている。曹洞宗宏智派の雲外雲岫の法を嗣ぐ。足利直義の招きで観応2年(1351)に来日している。曹洞宗であったが、天龍寺、南禅寺、建長寺や円覚寺などの住持を務めている。貞治4年(1365)81歳で死去。諡号は妙応光国慧海慈済禅師。
 なお、尊氏の法名「仁山妙義 等持院殿」より別院等持寺は等持院と改められている。その後、本寺である等持寺を統合し、天龍寺末寺になったとも言われている。当時は26宇の伽藍を有す寺院となっていた。以後、歴代の足利将軍の葬送が執り行われ、足利家の菩提寺となる。

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等持院 庫裏
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等持院 松飾が残る

 天授5年(1379)足利義満に相国寺建立を進言した義堂周信が等持院に住している。その義満も応永15年(1408)に没し、等持院で荼毘に伏され、相国寺鹿苑院に葬られている。文安3年(1446)等持寺が焼失し、その後に興った応仁・文明の乱(1467~77)により完全に荒廃し、等持寺は等持院に吸収され廃寺となる。永正17年(1520)には細川高国と三好之長の軍が対立する等持院の戦いが勃発する。豊臣秀吉の命により慶長11年(1606)豊臣秀頼が再建している。しかし慶長13年(1608)と文化5年(1808)に焼失し、文化15年(1818)に現在の方丈が竣工するなど再興されている。天保14年(1843)一条家により御霊屋が寄付される。そして幕末の文久3年(1863)有名な足利将軍三代の三像梟首事件が起こる。

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等持院 天龍寺と同じ達磨図

 菊池明氏の幕末天誅斬奸録(新人物往来社 2005年刊)によると、2月22日の夜、浪士2名が等持院に押し込み、刀を抜き御霊屋番人6人を追い払い、役僧1人に案内させた。足利三代の木像の首を持ち出した2人は、等持院の門前で他の浪士達と合流し、鬨の声を挙げたとしている。一味の総数は30人にものぼっていたらしい。この木像の首を三条河原に以下の罪状書とともに晒した。

一          逆賊 足利 尊氏
一             同  義詮
一             同  義満
正名分の今日に至り、鎌倉以来の逆臣、一々吟味遂げ、誅戮致すべきのところ、この三賊巨魁たるによりて、まずその醜像へ誅加うもの也

 さらにご丁寧にも三条大橋西詰の御札場に長文の罪状書を掲げていた。

 この者どもの悪逆はすでに先哲の弁駁ところ、万人のよく知るところにして、いまさら申すに及ばずといえども、今度この影像どもを斬戮せし候に付いては、贅言ながら、いささかその罪状を示すべし。
 そもそも、、この大皇国の大道たるや、ただただ忠義の二字をもってその大本とす。初代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝世に出て朝廷悩ませ奉り、不臣の手始めを致し、ついで北条、足利に至りて、その罪悪、実に天地神人容るべからず、ともに誅するところ也。しかりといえども、当時天下錯乱、名分紛擾の世、朝廷御微力にして、その罪を糺し給う事、遺感(憾)にしてあたわず。あに悲しむべきや。
 今彼等が遺物等を見るに至りても、真に奮(憤)激に堪えず、我々不敏(憫)なりといえども、五百年昔の世に出でたらんには、生首引き抜かんものを握掌切歯、片時も止婿とあたわず。
 今や万時復古、旧弊一新の時運、遂に不臣の奴原の罪科を正すべきの機会也。故に我々申し合わせ、まずその臣賊の大罪を罰し、大義名分を明さんがため、昨夜、等持院にあるところの尊氏はじめ、その子孫の奴等の影像を取り出し、首を刎ねてこれを梟首し、いささか旧来の蓄墳を散ずもの也。
                             亥二月二十三日
 大将軍織田公に至り、右の賊統断滅す。些く愉快と云うべし。しかるに、それより爾来、今世に至りこの奸賊になお超過し候者あり。その党許多にして、その罪悪、足利等の右に出ず。もしその等の輩、真に旧悪を悔い、忠節を抽きて鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐奉りて古来に復し、積罪を贖うる所置なくんば、満天下の有志追々大挙して罪科糺すべきもの也。
 右は三日の間さらし置くもの也。もし取り捨て候ものは、きっと罪科行うべきもの也。

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等持院 方丈南庭を西側から眺める 方丈の先に霊光殿が見える

 実に饒舌な罪状書である。これを読むと、建武の新政を崩壊させた足利尊氏及びその室町幕府を憎むだけでなく、源頼朝の鎌倉幕府自体から否定していることがよく分かる。つまり彼らは武家による政治の始まりが天皇による親政を阻害していると見ている。そのため織田信長が、足利幕府を終わらせていることをある程度評価しているものの、その後も豊臣、徳川と武家政権が続いている現状に対して異議を唱えている。
 罪状書の半ばあたりに「今や万時復古、旧弊一新の時運」という言葉を用いている。現今は、徳川幕府を廃し天皇親政を求める時勢であると言っている。徳川慶喜が大政奉還を行うのが慶応3年(1867)10月14日なので、それより4年ほど前の状況である。
 文久2年(1862)7月20日、九条家家士の島田左近が木屋町通り二条下るの善導寺あたりで殺害され、同月23日に四条上る鴨川河原で青竹に括りつけられた首が晒されたのが天誅の最初とされている。その後、主だった人物だけでも本間精一郎、猿の文吉、渡辺金三郎・大河原十蔵・森孫六の京都町奉行所与力、長野主膳の妾・村山可寿江とその息子で金閣寺侍臣の多田帯刀、儒者の池内大学、千種家雑掌の賀川肇などの天誅が実行されてきた。文久3年(1863)1月22日、大阪難波橋に晒された池内大学の首には両耳がなかった。首を晒す前に、大学の両耳は切断されていた。そして、それらは中山忠能と正親町三条実愛の屋敷に投げ込まれた。公武合体派の公卿に対する警告状に利用されたのである。両卿は議奏辞退を申し出、同月27日に御役御免が認められている。文久3年(1863)1月29日殺害された賀川肇も、首は一橋慶喜の旅宿とされている東本願寺の門前に白木の三方の上に置かれ、右腕は千種有文邸に、左腕は岩倉具視邸に投じられている。これは皇女和宮の降嫁に加担した、いわゆる四奸二嬪とした千種と岩倉に対する脅しである。このように単なる奸人の殺害から始まった天誅も、エスカレートするとともに、注目を集めるべき演出も行われるようになってきた。

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等持院 方丈南庭の門
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等持院 門と南庭

 ただ殺害し首を河原に晒すだけでは、世間の耳目を集められなくなってきた。そのような状況で、生きた人間でなく木像の首を晒したという演出が、目新しかったのであろう。この事件の前年の文久2年(1862)12月に京都守護職に就任した松平容保が会津藩士1000名を率いて上洛している。上洛当初は浪士たちとの対話路線をとってきたが、この事件を境に強攻策に転じたとも言われている。旧会津藩家老の山川浩が纏めた京都守護職始末には、「かかる尊貴を辱むるは、すなわち朝廷を悔辱するもの、ことにその暴行たる屍を鞭つに同じ。速やかにこれを逮捕して厳刑に処せざれば、国家の典刑立ち難し」としている。今までの天誅は個人の罪状を挙げ、それに対する処罰として行われてきた。今回は個人に対する殺人行為ではなく、徳川幕府に対する反逆あるいは反乱行為として捉えたのであろう。先の罪状書の末部に、「今世に至りこの奸賊になお超過し候者あり。その党許多にして、その罪悪、足利等の右に出ず。」としているのは、明らかに徳川家を名指している。そしてこの後に予定されている将軍家茂の上洛(文久3年(1863)3月4日)に対する強力な牽制でもあった。
 そして木像の首が晒されていた2月23日は、江戸から浪士組が京都に到着し三条大橋を渡り壬生村向かった日でもある。浪士組は清河八郎が構想した御親兵になることは叶わず、再び東帰することとなる。しかし浪士組から近藤勇や芹沢鴨等が分離し京に留まることで、会津藩御預かりの新選組となっていく。松平容保が強攻策に転じる事件が起きた当日に、その戦力となる新選組が京に到着したと見ることもできる。

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等持院 南庭の西隅を眺める

 このように世間の耳目を集めることとなった足利三代木像梟首事件の犯人は、比較的容易に捕まっている。浪人に身をやつした会津藩士・大庭恭平は、この計画の立案時点から参加していた。恭平は事件の実行を見届けてから、会津藩邸に出頭し報告している。これによって犯人が平田派国学の門人達であり、長州、薩摩、土佐などの大藩に属さない小藩の郷士達の集まりであったことが分かった。
 石田孝喜著の幕末京都史跡大辞典(新人物往来社 2009年刊)によると捕縛の状況が分かる。2月26日夜半、黒谷を発した会津藩の捕り方は、野呂久左衛門の居宅である満足稲荷、祇園新地奈良屋、二条衣棚の三輪田網一郎寓居、西洞院三条の長尾郁三郎宅等を襲った。祇園で三輪田網一郎(伊予松山)、建部健一郎(常陸)、宮和田勇太郎(下総)、長沢真古登(陸奥)そして大庭恭平を捕らえた。満足稲荷には探す野呂久左衛門と岡元太郎が不在であった。二条衣棚で師岡節斎(江戸)、高松趟之助(信濃)、青柳健之助(下総)を捕らえたが、仙石佐多男(因州)は捕縛前に自刃したとされている。長尾郁三郎(京の商人)も捕らえられている。後に近江の地で野呂久左衛門(備前)と西川善六郎(江州の商人)も捕らえられている。その他、木像梟首事件に加わったもので、石川一(因州)、角田由三郎(信濃)、小室利喜蔵(京の商人)、中島永吉(江州)、北村義貞(播磨)、岡元太郎(備前)、伊藤嘉融(肥前)そして梅村真一郎(肥前)、は捕縛を逃れている。
 捕縛された浪士達は遠島の罪を減じられ、身分や年齢に応じて緒家や親類預けに処せられた。最初の松平容保の意気込みとは対照的な処罰である。探索としてであっても会津藩士の大庭恭平が含まれていたため、一橋慶喜や松平春嶽らが憐れんで、全体的に罪が軽減されたとも言われている。恭平は信濃国上田藩に流罪となり、慶応4年(1868)から始まる戊辰戦争の際に、新政府軍によって釈放されている。徳川幕府あるいは会津藩によって流罪にされたから、新政府軍は解き放ったのであろうが、釈放後の恭平は古屋作左衛門が率いる衝鋒隊に加わり各地で戦功を立て、会津戦争の戦後処理や会津藩の斗南藩での再興に尽力し、明治35年(1902)に死去。享年73。

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等持院 方丈南庭を東側から眺める

 司馬遼太郎の小説「幕末」(文藝春秋新社 1963年)に収録されている「猿ケ辻の血闘」は大庭恭平を主役とし、文久3年(1863)2月22日の足利三代木像梟首事件と5月20日の姉小路公知の暗殺(朔平門外の変)の両事件とも手がけたように描かれている。そして鳥辺山の蓮正寺に「文久三年五月二十一日歿」の墓碑があるとしている。すなわち姉小路公知の暗殺の翌日に亡くなったこととしている。恭平が公知切りに使用したのは、人斬りとして有名な田中新兵衛の太刀であったとしている。確かに新兵衛の太刀は事件の数日前に盗まれ、それを使用して暗殺が行われたことは史実のようである。恐らく、田中新兵衛あるいは薩摩藩自体に容疑が向かうように故意に遺留されたのであろう。しかし大庭恭平は流刑地から脱走もしていないし、戊辰戦争に参加した上、明治の世まで生き残っていることは確かである。
 これは、天満屋事件跡の項でも指摘した通り、司馬遼太郎が歴史小説として成立させるために、大部分の史実の中にさりげなくフィクションを埋め込んでいる。
 司馬は朔平門外の変を薩摩藩の朝廷での影響力を殺ぐために会津藩が仕組んだ事件と読みたかったのかもしれない。現実に薩摩藩は禁門警備の任を解かれ、薩摩藩関係者の九門内往来が禁じられるなど次第に京都政局から排除されていく。そして破約攘夷派を排除する計画が立てられ、八月十八日の政変につながっていく。

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等持院 霊光殿

 さて、再び話しを等持院に戻す。明治に入り、神仏分離令後の廃仏毀釈が等持院にも大きな被害を与える。9院あった塔頭のうち1院のみを残こすのみとなる。さらに明治4年(1872)霊屋と書院が破却される。また昭和14年(1939)頃より境内北側に立命館高等工科学校(後の立命館大学)の移転が始まる。戦後の昭和25年(1950)ジェーン台風により庭園内の蓬莱島に建っていた妙音閣が倒壊する。

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等持院 南庭

「等持院」 の地図


大きな地図



等持院 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  等持院 山門 35.0298 135.7243
02  等持院 表門 35.0313 135.7235
03  等持院 庫裏 35.0315 135.7234
04  等持院 方丈 35.0314 135.7236
05  等持院 霊光殿 35.0314 135.7239
06  等持院 マキノ省三先生像 35.0307 135.7239
07  真如寺 35.0308 135.7251

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