文書と写真・地図による「記憶」の再現

天龍寺 弘源寺

天龍寺 弘源寺(こうげんじ) 2009年11月29日訪問

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天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭

 宝厳院の山門を潜り、紅葉の美しい参道を北に進むと再び法堂の前に出る。放生池の北側を東に進み、松巌寺、慈済院を過ぎると、毘沙門天の提灯を吊るした弘源寺の山門が現れる。

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天龍寺 弘源寺 山門

 永享元年(1429)あるいは文安3年(1446)6月、後に室町幕府管領となる細川持之が、玉岫禅師を開山として創建した寺院。寺名は、持之の院号による。細川持之は細川満元の次男として応永7年(1400)に生まれている。兄は細川持元で、応永33年(1426)父の満元の死去に伴い、細川京兆家の家督を継いだが、僅か3年後の正長2年(1429)31歳で夭折している。持元には嗣子がいなかったため、家督は弟の持之が継ぐ事となった。弘源寺が開創された永享元年(1429)は、兄である持元が亡くなり、持之が細川家を継いだ年となる。そして永享4年(1432)に斯波義淳の後を受けて管領に就任している。

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天龍寺 弘源寺 境内

 応永元年(1394)第3代将軍足利義満は、将軍職を子の義持に譲っている。この時、義持はまだ9歳であったので、太政大臣となった義満が実権を握っていたため、幕府の評定も義満の居住する北山第で開催されて義持が参画する事はなかったとされている。また義満は義持の弟である義嗣を偏愛し、嫡男以外は出家させる慣例に従って梶井門跡に入室させた義嗣を、応永15年(1408)に還俗させている。さらに義嗣を北山第に住まわせている。兄の義持は将軍とはなったものの父の義満より冷遇され、不仲の関係であった。
 応永15年(1408)足利義満が死去すると実権は義持に渡り、対朝廷・公家政策から守護大名統制政策、そして明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定されることとなる。さらに北山第も金閣を除いて破却している。応永23年(1416)上杉禅秀の乱の際、京都を出奔した義嗣を、乱への関与を疑い捕縛し仁和寺次いで相国寺へ幽閉し、再び出家させている。さらに応永25年(1418)近臣の富樫満成に義嗣を殺害させている。
 応永30年(1423)義持は子の義量に将軍職を譲り、翌年6月には等持院で出家して寺社参詣などを始めるが、実権を手放すことは無かった。しかし第5代将軍足利義量は、応永32年(1425)将軍職就任後僅か3年で早世する。享年19。義量には嗣子が無かったため、義持が将軍代行として政務を執ることになった。しかし義持も応永35年(1428)1月に感染症となり、同月18日に次の将軍を決めないまま死去する。享年43。義持の死後、籤によって将軍職は弟の足利義教が継ぐことになる。

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天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭へと続く中門

 足利義教は第3代将軍足利義満の三男として応永元年(1394)に生まれている。次男の義嗣と同じく、嫡男でないため、応永10年(1403)青蓮院に入室し、応永15年(1408)得度して門跡となり義円と名乗る。応永26年(1419)153代天台座主となり、天台開闢以来の逸材と呼ばれ将来を嘱望されていた。しかし応永35年(1428)1月、将軍職を代行していた兄の足利義持が重病に陥ると、義円と弟の梶井義承、大覚寺義昭、虎山永隆らの中から将軍を決めることになった。1月17日、畠山満家が石清水八幡宮でくじを引き、翌日の義持死亡後に開封され、義円が後継者に定まった。このことから籤引き将軍とも呼ばれることとなる。
 将軍に就任した義教の政治目標は、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活であった。施策の手本は足利義満に求めたと考えられている。管領を経由して行ってきた諸大名への諮問を将軍が直接行なうなど、管領の権限抑制策を打ち出した。また、増加する軍事指揮行動に対処するために、軍勢催促や戦功褒賞においてはこれまでの御内書と並行して管領奉書を用いるようになっていった。また、義持の代から中断していた勘合貿易を再開させて財政政策を見直すなど、幕府権力の強化につとめた。そして社寺勢力への介入を積極的に行った。

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天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭

 細川持之が管領に就任した永享4年(1432)は、正に義教が将軍親政を行う過程であった。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する永享10年(1438)の永享の乱、そして永享12年(1440)の室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の結城合戦にも対応している。持之は嘉吉元年(1441)5月26日に義教を自邸に招いて結城合戦戦勝の祝宴を開いている。しかし、関東平定と中央集権の実現が見えてきた結城合戦の勝利が、義教の運命を変えていくこととなる。
 嘉吉元年(1441)6月24日、関東の持氏征伐を終えた慰労という名目で、赤松満祐の子の教康は義教の御成を招請している。将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う御成は重要な政治儀式であったため、義教は疑うことなく少数の側近を伴って赤松邸に出かけている。そしてこの宴の席で第6代将軍はあっけなく赤松氏によって暗殺され、その上で首級まで奪われたまま領国である播磨への帰国を許してしまう。
 翌25日、持之は評定を開き義教の嫡子を次期将軍足利義勝とすることを決定する。26日に義勝を政所執事伊勢貞国の屋敷から室町殿へ移すが、幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。7月1日、相国寺塔頭鹿苑院内蔭涼軒主である季瓊真蘂が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めた。満祐が返還した首は真蘂によって京都へ持ち帰られ、6日に等持院で義教の葬儀が行われている。

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天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭の中央部

 赤松氏征討軍が結成されるも、7月中は幕府内の混乱は更に続く。そして8月1日、細川持之は赤松討伐のための治罰綸旨を得る。細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻し、遂に9月10日の城山城総攻撃により赤松満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹している。嘉吉の乱の戦後処理として、満祐を討ち果たした山名持豊には播磨守護職が与えられ、山名教之は備前守護、山名教清は美作守護に任ぜられている。細川持之は、前記の6月25日の評定において、義教に処罰された人々の赦免を決定している。持之は嘉吉の乱の翌年の嘉吉2年(1442)6月、管領を辞任して出家し常喜と改名、同年8月4日に死去している。享年43。細川持之は将軍義教の恐怖政治を支えてきたことにより守護大名たちの反感を買い、そして義教暗殺後の幕府内での混乱を収拾できなかったことによって実権を失ったと見ることができる。なお細川家の家督は嫡男の勝元が継いでいる。
 嘉吉元年(1441)結城合戦の出陣を拒んだことにより、将軍足利義教によって家督を奪われ隠居を余儀なくされていた畠山持国も赦免され、上洛し管領に就任している。持国は義教に処罰された人々の復権を図り、反発した細川氏と対立、大名家のお家騒動を引き起こすこととなっていき、幕権の失墜が決定的になり、守護大名の権力拡大へとつながって行く。赤松満祐の大甥にあたる政則が、細川勝元と結び旧地回復を目指して山名宗全と対立したことに端を発する応仁の乱は応仁元年(1467)のことである。

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天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭の西側

 話しを弘源寺に戻す。開山の玉岫英種は徳叟周佐の法嗣で夢窓疎石の法孫にあたり、天龍寺93世を務めている。当初は、小倉山の麓にあり、落柿舎のあたり、北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有したとされている。その後、幾度かの火災により焼失し、衰微している。天龍寺の塔頭の項で紹介したように、小林善仁氏の論文「近代初頭における天龍寺境内地の景観とその変化」には、天龍寺文書の嘉永3年(1850)「絵図目録」より作成した江戸時代末期の天龍寺の塔頭一覧が掲載されている。これによると、天龍寺境内には雲居庵を始めとした20塔頭、それから臨川寺とその8塔頭、鹿王院とその塔頭2。さらには宝篋院や西芳寺、地蔵院など10塔頭を加え42塔頭としている。弘源寺はこの42塔頭の中に含まれている。この後、元治元年(1864)禁門の変が勃発し、天龍寺は薩摩軍の砲火により全山焼失してしまう。その後の復興についても既述の通りである。 明治4年(1871)に第1次上地令が太政官布告第4号(太政官達第258号)が出た後、明治8年(1875)に第2次上地令として社寺境内外区画取調規則が発せられている。先の「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」の12~13頁に掲載されている「天龍寺境内地の状況(明治8年夏~同9年春)」より、明治維新を挟み、境内の景観を大幅に変貌させた天龍寺の様子が窺える。上記の図はこの第2次上地令の際にまとめられた「葛野郡下嵯峨村天龍寺境内再検査結果伺」を基に作成されているが、この時点では維北軒は存在するものの弘源寺を見つけ出すことはできない。この図は野宮神社より南側を描いたもので、更に北側の落柿舎あたりの様子を窺うことはできない。 維北軒へ弘源寺を合併し、寺号を弘源寺と改称したのは明治17年(1884)10月のことだった。そのため、同じく小林善仁氏の論文「山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料」の38頁に掲載されている「天龍寺境内地と旧境内地」には、既に維北軒の姿は失われ、弘源寺となっている。これは「天龍寺境内地の状況(明治8年夏~同9年春)」の10年後の明治17年(1884)12月から翌18年10月までの状況を表したものであるためだ。ただし、弘源寺の公式HPでは、末庵である維北軒との合寺は明治15年(1882)としている。
 恐らく昭和47年(1972)のことだと思われるが、宝厳院が弘源寺の境内に移転してくる。しかし平成14年(2002)に元の妙智院の敷地に宝厳院が移転したため、現在のような姿となっている。現在も宝厳院の公式HPと弘源寺のHPは連携していることから、何らかの関係が続いていると思われる。

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天龍寺 弘源寺 長州兵による刀傷

 山門を入ると西側に毘沙門堂が現れる。重要文化財に指定されている毘沙門天立像(平安時代)を祀る。インドの仏師毘首羯磨の作で、インド、中国を経て比叡山無動寺、般舟院に伝えられている。開山の玉岫禅師により、当寺に迎えられたとされている。そのような由来のため三国伝来の毘沙門天と呼ばれている。

 山門の正面に庫裏、その東側に寛永年間(1624~45)に造営された客殿形式の本堂が建つ。確認はできていないが、建物の規模から見て恐らくは旧維北軒の建物であったと思われる。維北軒は禁門の変の後の戦火による焼失から免れていたようだ。そのため、この客殿には長州藩兵による刀傷が残されているのであろう。なお禁門の変とその後の天龍寺焼失については、天龍寺 その5その6を御参照下さい。 本堂の正面中央に本尊観世音菩薩、右側に開山である玉岫禅師木像、左側に開基である細川右京太夫持之公の位牌を祀られている。

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天龍寺 弘源寺 長州兵による刀傷

 客殿の南には虎嘯の庭が築かれている。虎嘯とは「碧巌録」の「龍吟雲起 虎嘯風生」に由来している。「碧巌録」とは、臨済宗において尊重される、代表的な公案集である。北宋の禅僧である雪竇重顕が、過去の禅僧が残した百個の公案(禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題すなわち禅問答)について自ら偈頌を付した「雪竇頌古」を、宋の禅僧圜悟克勤が垂示、著語、評唱を加えて纏めたものである。「虎嘯風生」とは虎が嘯けば自然に風が生じて来る、すなわち力量のある者が言えば、無心な自然界も自ずからそれに沿って動いて来るという意味である。
 南西の嵐山を借景にし、苔の築山、白砂、石が据えられた枯山水様式の庭園であるが、それ程古い庭には見えなかった。これも宝厳院が移転した後に整備されたものではないだろうか?残念ながら硝子戸を明けることができなかったため、良い写真が残っていないが、小さいながらも借景とした嵐山の美しい庭である。どうも近年になって硝子戸を明けることをしなくなったようだ。名庭を謳っているならば、直接見えるような拝観順路にして頂きたいものだ。

 本堂内には竹内栖鳳一門(上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉ほか)の障壁画が残されている。また去来墓は、現在も弘源寺の墓地の中にある。元の寺地が落柿舎のあたりにあったことが良く分かる。

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天龍寺 弘源寺 虎嘯の庭

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