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松尾の町並み



松尾の町並み(まつおのまちなみ) 2009年12月9日訪問

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松尾の町並み 松尾大社の一之鳥居

 八条ヶ池の南半分に面する錦水亭の外観を眺めた後、長岡天満宮の中堤の入口に建つ大鳥居を潜り、天神通を東に進む。阪急京都本線の長岡天神駅までは200メートル程度である。ここより京都本線に乗車し、嵐山線の松尾駅を目指す。京都本線から直接嵐山に向う直通列車は行楽時期だけの臨時列車だけで、通常は桂・嵐山間の折り返し運行となっているため、桂駅で嵐山線に乗り換えると、上桂の次が松尾駅となる。
 松尾大社のある場所は桂川の右岸でも、西側から松尾山・嵐山が迫り出しているため、平地の部分が最も少なくなっている。松尾駅前には東側から松尾橋を渡って四条通が入り、南北の京都府道29号宇多野嵐山山田線に突き当たっている。四条通は東の八坂神社と西の松尾大社を結ぶ道であることが実感できる光景でもある。この京都府道29号をYahoo MapやGoogle Mapでは物集女街道と表記している。京都観光Navi(https://vinfo06.at.webry.info/200905/article_13.html : リンク先が無くなりました )でも記されているように、樫原から向日市鶏冠井町付近まで南北に通じる道を物集女街道と考えると、この区間は外れている。なお「日本歴史地名大系第26巻 京都府の地名」(平凡社 1994年初版第四刷)でも、物集女街道は寺戸村から分かれる西国街道と樫原で西に向う山陰街道を結ぶ道とされている。(物集女村の条) また旧嵯峨街道が、法輪寺の門前から松尾大社の二之鳥居前を南に下り月読神社の前を通る道であったことから現在の府道29号線の西側に近代以前の幹線があったようだ。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)によると、かつて四条街道と呼ばれる四条通と西院を経て京の西を結ぶ街道があった。これは現在の松尾橋付近で桂川を渡り、渡月橋南端に達し、旧葛野郡の四大幹線に数えられ南の西岡や乙訓郡方面から京の市中入らずに嵯峨に達する路として用いられてきた。中世にはこの街道沿いに松尾社・最福寺・西芳寺・地蔵院・浄住寺・法華山寺などの大寺大社が甍を並べそれぞれの門前町を形成していたが、近世に入り松尾社を除き、ことごとく衰退していったため再び農村的な景観に戻った。
 現在の松尾大社の地名は嵐山宮町となっている。明治12年(1879)郡区町村編制法に基づき太秦村に山城国葛野郡の郡役所が設置されている。明治22年(1889)市制町村制施行に伴い松尾谷村・松室村・上山田村・下山田村・御陵村の五村が松尾村となっている。そして昭和6年(1931)には松尾村とともに嵯峨町・花園村・西院村・太秦村・梅ヶ畑村・梅津村・京極村・桂村・川岡村が京都市に編入し、右京区が発足している。その後、昭和25年(1950)に乙訓郡大枝村、昭和25年(1950)に乙訓郡大原野村が右京区に編入されている。昭和51年(1976)右京区から松尾、桂、川岡、大枝、大原野地区が分区し西京区が誕生する。
 なお昭和6年(1931)の京都市への編入された時に旧上山田村(大字嵐山)が嵐山を冠した20町となっている。ただし宮町が成立したのは昭和20年(1945)であり、虚空蔵山町が成立し現在の22町となったのは昭和26年(1951)のことである。同様に旧松尾谷村が松尾大利町のように松尾を冠する10町に松尾谷松尾山町を加えた11町となっている。同様に、旧松室村が松室の13町、旧下山田村が山田の34町(この内下山田を冠するのが4町)、そして旧御陵村も御陵の16町から桂坂ニュータウン開発に伴い20町に増えている。

 かつての上山田村は北と東を桂川に面し、南は松室村、西は丹波国に接し、村域の大部分は山間部にあった。渡月橋より東南の桂川右岸には上記のように四条街道が南北に走り、中近世を通じて京郊外の交通の要衝であった。村名は古代の山田郷に由来している。平安時代中期に編纂された和名類聚抄にも葛野郡の郷名として山田郷が見られる。
 寛政元年(1789)の郷帳によると村高494.6石余で松尾社領261石、中山家領156石、中御門家領76石、その他が三家の知行であった。幕末には100石余増加し602.2石(天保郷帳)となっている。
 もともと松尾社境内の山林は近隣の14ヶ村の入会山として農民の利用が認められていた。社家は14ヶ村から山手と呼ばれる山年貢を徴収し、これを神社の経営に充てていた。しかし乱伐が横行し大雨による土砂の流出が激しくなったため、元禄11年(1698)には社家は神山への立ち入り禁止を奉行所に訴え出ている。これより14ヶ村との入会山についての論争が続き、享保7年(1722)には神山境界を定め、西芳寺川上流の奥山への入山を認める裁可が下されている。しかしこの奥山へ薪売りが入山し再び乱伐を行ったため西芳寺川への土砂の流入が激化している。そのため宝暦7年(1757)に14ヶ村側も

と約束している。これにより松尾社領の山林は保護されるようになった。

 なお松尾大社の西方にあたる松尾山の標高220メートル前後の尾根筋に三基の古墳が遺されている。これらは松尾神社西方古墳群と呼ばれ、古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳である。法輪寺南方380メートルの山田古墳、及び松尾山古墳群と同じ尾根にあることから同じグループに属する古墳と考えられている。

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松尾の町並み 松尾大社内を流れる桂川用水
桂川右岸風景を特徴付けている

「松尾の町並み」 の地図





松尾の町並み のMarker List

No.名称緯度経度
 松尾山 35.0044135.6737
01  松尾大社 34.9999135.685

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