昭和京都名所圖會 その2
昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その2
昭和京都名所圖會では、1965年に全7巻で完結した「新撰京都名所圖會」とその後に時代の変化に合わせて改訂出版された「昭和京都名所圖會」を紹介するに留まってしまいました。この項では竹村俊則の経歴を中心に書いて行こうと考えています。
竹村俊則については、なかなか纏まった資料がないように思われる。いろいろな所で見る経歴やエピソードは、自らの著書のあとがきや新聞等のインタビューによるものが多いようです。このあたりを手際良くまとめたのが、板井博彦氏の「竹村俊則と新撰京都名所圖會」(京都産業大学日本文化研究所紀要 第12・13号 2008年刊)であろう。なかなか所蔵している図書館がなく、結局表題だけで内容を確認することなく国会図書館に複写をとりに出掛けてきました。開けてみたら研究成果の報告として纏められたようで、一般的な学術論文とは異なる書式でした。そのためか引用元など記した脚注がありません。何を基にしたのかは本文の記述からしか分かりません。
この報告は、概要と序から始まります。1 『新撰京都名所圖會』執筆まで から 7 『新撰京都名所圖會』完結から1979年まで 、 8 『新撰京都名所圖會』から『昭和京都名所圖會』へ そして、 9 竹村俊則略書誌 、 附 『出水校百年史』について という構成となっています。3から5では『新撰京都名所圖會』の叙述方法、用字、挿画と口絵写真についての考察が加えられたことで、分析手法をとっていますが、大筋は約70頁に亘る竹村の経歴書と見てよいでしょう。
竹村俊則は大正4年(1915)京都市上京区で生まれています。しばしば「平安京神祇官址」の出身と自ら述べているようなので、現在の二条城の北側、竹屋町通に面した藁屋町あたりになるように思います。また後年、出身学校の「出水校百年史」を執筆していますので、もう少し西側の四丁目から主税町あたりだったのかもしれません。いずれにしても京料理仕出し屋の一人っ子として産まれ、幼少の頃より郷土・京都に関心を持っていました。京都市立商業実修学校の学生時代に、吉田初三郎の京都交通名所図会に出会い、大いに探究心をそそられたようです。そして昭和初年の十四五歳頃には「都名所図会」を古書店の店頭で手にしていたとされていますので、かなり早い時期から「新撰京都名所圖會」の着想を得ていたことが分かります。 学校を出た後、竹村は京都府に勤めています。そして戦後すぐの昭和20年(1945)年末には、「郷土文化研究会」を主催する田中緑紅を訪ね師事しています。田中緑紅は明治24年(1891)京都生まれの郷土史家で機関誌「郷土趣味」を発行、昭和32年(1957)には「京を語る会」を発足しています。京を語る会の会報は緑紅叢書として京の郷土史を調べる上で欠かせない書籍となっています。そして竹村は緑紅の元で会報「京都資料」の編集に携わるようになり、緑紅と同じく郷土史家の道を進んで行くことになります。
竹村は昭和22年(1947)11月1日付の第8号には知恩院の鳥瞰図を描いています。この知恩院の鳥瞰図が、今のところ最初に公開された挿画と考えられています。絵の視点は「都名所図会」と同一に設定されており、この構図は「新撰京都名所圖會」と「昭和京都名所圖會」へと継承されて行きます。
昭和27年(1952)史家の薮田嘉一郎と連携し、見学会組織の京都史蹟研究会を立ち上げています。その後、「京都史蹟会」との合併を経て、4年後の昭和31年(1956)に「京都研究の会」を設立します。竹村は、この新しい会でも見学会を企画しており、昭和39年(1964)まで、活動は続きます。このような竹村の12年間に及ぶ行動を、前述の板野氏は、図会出版のために史跡案内の蓄積行っていたと見ています。これより少し前、竹村は勤務していた京都府を辞し、自費出版の資金を調達するため事業を起こしました。しかし残念ながら事業は失敗、負債を抱え現代版名所図会出版に至ることはありませんでした。
この頃、竹村は画家の山田兼也を介し詩人の臼井喜之介との面識を得ています。臼井は月刊誌「東京と京都」を刊行する白川書院の経営者でした。この縁により昭和29年(1954)5月号に竹村の雙ヶ丘風物詩が掲載されることとなりました。これは文章だけでしたが、翌30年5月号の南鳥部野には今熊野鳥瞰図も添えられ、ここに「新撰京都名所圖會」のスタイルが確立されました。竹村の文と挿画は好評であったため、その後も何回か掲載依頼がありました。そして昭和32年(1957)6月号より「新撰京都名所圖會」が東山の部の東福寺から始まりました。これは「都名所図会」の青龍にあたります。この時点で竹村は4年程連載が続くと考えていましたが、刊行本の出版は予期していなかったようです。「新撰京都名所圖會」を書き終わった巻六のあとがきに、「はじめの頃は、これがのちに單行本として出版されようなどとは豫想もせず、またあくまでも下書きのつもりであつたから、内容も簡略につとめ、またわざと省略したところもあった」と記しています。そのため集大成とするべく本格的に執筆に入ったのは巻二を終了した頃とも書いています。このことが「昭和京都名所圖會」を執筆する動機となりました。
「新撰京都名所圖會」の巻一は、東福寺より始まり延暦寺 横川で終わっています。「東京と京都」の昭和32年(1957)6月号から翌33年(1958)6月号までの13回分を纏めています。板野氏の指摘に拠れば、刊行本「新撰京都名所圖會」は雑誌「東京と京都」の版面を転用するかたち出来上がっています。確かに連載第4回以降はそのまま転用されていますが、最初の3回分にはいくつかの修正を加えていますので、あるいは刊行本の企画はこの時期より始まったのかもしれません。この版面転用は、版社側にとって効率的ですが、竹村にとって負担を強いるものとなったようです。
巻一 東山の部は昭和33年(1958)10月1日に発行されています。序文では新村出が以下のように賛辞を寄せています。
この圖會は、今から約百八十年前のむかし世に出た古典的な名著たる秋里籬島の「都名所圖會」等をも、優に凌駕し、その上、挿會と構文とが全く同一人の手に成り、自然味と古典味と相融合し、現實と古色とが巧みに調和されて、畫面の上に浮き出てをる様に見え、實に非凡な効果を擧げられた。
また、臼井喜之介も発行者のことばを巻末に記しています。私が借りた本は昭和37年(1962)に刊行された三版であったので確認することは出来ませんでしたが、「竹村俊則と新撰京都名所圖會」によれば、初版には次のように書いてあるようです。
殊に竹村氏は挿画まで自ら描かれるため、幾度も同じ場所に足を運び、その労はまことに多とすべきものがあります。重要な建物は一々実測して、縮尺の正確を期し、また柱の数なども実物に合して作図された由で、後世のよき資料たるを信じて疑いません。
これに呼応するように竹村も凡例の中に、「一、 鳥瞰圖中、作畫にあたつては適宜縮圖・省略をしたところもあるが、重要文化財に指定されている建築物はすべて實物通りに描いた。」と記しています。単なる観光案内に留まらないものを目指していたことが良く伝わります。
「新撰京都名所圖會」の巻六は昭和40年(1965)1月10日に刊行されました。当初は全六巻の予定でしたが、宇治、綴喜、久世、相楽各郡の記述量が大幅に増えたようで、同月15日に巻六の巻末に予定していた索引が巻七として刊行されることとなりました。そのような事情があったためか竹村のあとがきは巻六の巻末に記されています。
当時、年末の賞与で教養書やレコードを買って正月を迎える家庭が多かったようで、出版社として遅くとも前年12月までに刊行したかったはずです。今のようにテレビ三昧ではなく、もう少し文化的な正月だったようです。
当初は4年と目論んでいた連載も、「新撰京都名所圖會」としての完成には8年余の時間を要しました。一方「東京と京都」の連載の最終回である第97回は刊行本発行後の昭和40年(1965)8月号となりました。大好評により巻六の第二版が同年5月20日に発行されましたが、それよりも連載の終了が遅かったというのは珍しいことです。
「新撰京都名所圖會」の増刷を繰り返していた昭和46年(1971)頃より、竹村は全面的な改訂を考えていたようです。しかし昭和49年(1974)に臼井喜之介が急死、同54年(1979)には白川書院自体が深刻な経営難に陥ることとなりました。「東京と京都」から改名した月刊誌「京都」を継続させるため、新たな会社に「京都」を譲渡移籍させることになりました。そして白川書院は廃業するしか方策が有りませんでした。臼井喜之介の設立した白川書院と現在「月刊京都」を発行している株式会社白川書院は別会社ということになります。この廃業により竹村にとって「新撰京都名所圖會」を改訂する途は閉ざされました。
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