文書と写真・地図による「記憶」の再現

南千住 回向院 その9



南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その9 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院 烈婦瀧本之碑 B-20

 南千住 回向院 その8では、幕末に処刑された政治犯の埋葬を受け入れてきた回向院の住職・川口厳考と桜田門外の変に関わった人々を見てきた。この項では岩崎英重が明治44年(1911)に著した「桜田義挙録」(吉川弘文館 1911年刊)を通じて桜田門外の変に関わった人々の埋葬とその後の水戸藩による改葬について見て行く。

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南千住 回向院 稲田重蔵遺墳 C-13
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南千住 回向院 有村次左衛門遺墳 C- 3
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南千住 回向院 鯉渕要人遺墳 C-14

 桜田門外の変に関わった人々の最期を今一度整理してみる。襲撃中に討死したのは稲田重蔵の1名、有村次左衛門、鯉渕要人、広岡子之次郎、山口辰之介の4名が自刃している。佐野竹之介、斎藤監物、黒澤忠三郎と蓮田一五郎、大関和七郎、杉山弥一郎、森五六郎、森山繁之介の8名が自訴したが、佐野、斎藤、黒澤の3名は取り調べが終わる前に落命している。残った蓮田、大関、杉山、森、森山の5名が文久元年(1861)7月26日に伝馬町獄舎で斬罪に処せられている。襲撃者16名の内、広木松之介、増子金八、海後磋磯之介の3名は襲撃後に現場から離脱したため、捕縛されることはなかった。広木は襲撃の3年目にあたる文久2年(1862)3月3日相模国鎌倉の上行寺墓地で切腹して果てている。以上が襲撃実行者の最期である。

 次に上方での蜂起に関係した人々を見て行く。先発して上方に入っていた高橋多一郎・庄左衛門父子も3月24日に四天王寺境内で自刃している。薩摩藩との連絡役であった川崎孫四郎は3月23日に自刃、翌日に果てている。小室治作も幕吏の追及を受け自刃、島男也邸に潜伏していた山崎猟蔵も3月22日に幕吏に捕えられ、4月9日に大阪の牢獄内で絶食死している。以上の4名は何れも大阪の地で死を選んでいる。
 京都妙法院の寺侍で、高橋父子を匿ったため捕縛された佐久良東雄は江戸に送られたが、6月27日に伝馬町獄内で絶食死している。3月22日に捕縛された笠間藩士の島男也も文久元年(1861)11月5日伝馬町獄舎で獄死。高橋多一郎に従って大阪に先行した大貫多介も事変後堺で捕らわれ7月29日伝馬町牢獄で獄死している。これら3名は大阪で捕縛された後、江戸に送られ伝馬町牢獄内で命を落としている。

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南千住 回向院 廣岡子之次郎遺墳 C- 1
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南千住 回向院 山口辰之助遺墳 C-15

 襲撃計画の見届役であった岡部三十郎は、薩摩が蜂起しないことを知り水戸へ戻っている。そして江戸に出た所を捕縛され伝馬町牢獄に繋がれる。計画の首謀者であった金子孫二郎は薩摩の有村雄助と水戸の佐藤鉄三郎らと京へ向かったが、3月9日に伊勢四日市で薩摩藩兵に捕縛される。金子と佐藤は伏見奉行所に引き渡された後、同月24日江戸へ護送され伝馬町牢獄に入れられる。薩摩に連れ戻された有村も3月23日に藩命で切腹となっている。岡部、金子、佐藤の3名は大阪外で捕縛され伝馬町牢獄に入れられている。そして岡部と金子は、蓮田、大関、杉山、森、森山の5名の実行者と共に文久元年(1861)7月26日に伝馬町獄舎で斬罪に処せられている。
 襲撃の現場で指揮を執った関鉄之介も京へ向かったが、薩摩藩の率兵上京計画が行われないことを知り、西国各地を転々とする。そして岡部と同じく水戸藩領へ戻るが、水戸藩の探索が厳しくなり、ついに文久元年(1861)水戸藩士に捕縛される。城下の赤沼牢につながれた後、文久2年(1862)4月5日に伝馬町牢獄に移された。既に岡部等7名の斬首が行われた後であったため、移送後1か月経た5月11日に刑が執行されている。これを以って桜田門外の変の刑執行が終わる。斬首は襲撃実行者の5名を含む8名となった。

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南千住 回向院 佐野竹之助遺墳 C-11
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南千住 回向院 齋藤監物遺墳 C-17
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南千住 回向院 黒澤忠三郎遺墳 C-16

 まだ事変に関係する者は続く。襲撃に加わらなかった宮田瀬兵衛は3月11日に細川藩邸に自訴し4月23日に伝馬町牢獄で獄死している。さらに関鉄之介の江戸潜伏を匿った元吉原谷本楼の妓・滝本いのも伝馬町牢獄で獄死している。この2名は岡部等7名の斬首より前に伝馬町牢獄内で獄死した人々である。これに対して、広木松之介を名乗った水戸藩郷士の後藤哲之介の自訴は文久2年(1862)冬のことであった。後藤も江戸に護送され、伝馬町牢獄で同年9月13日に獄死している。

 事変の参謀とも謂われている軍学者の小野寺慵斎は文久元年4月12日に土浦の自邸で自刃している。また、桜田門外の変に直接参加しなかったものの捕縛の手を逃れるため四国、仙台に潜伏してきた木村権之衛門も文久3年(1863)3月26日水戸で病死している。
 さらに万延元年(1860)5月27日に伏見で憤死した飯田忠彦も、桜田門外の変に全く関与しなかったものの、事件に関連して自害を図ったことは明らかである。明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)では、これらの3名も桜田門外事件に関わった殉難者としている。

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南千住 回向院 宮田瀬兵衛之遺墳 C- 7
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南千住 回向院 關鐵之助妾伊能遺墳 B-17
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南千住 回向院 後藤哲之介遺墳 C-34

 この内で回向院に埋葬されたと考えられる22名の人々は下記の3つに該当する者である。

1 戦闘が終了した時点で死亡していた人 5名
討死 稲田重蔵
戦闘後自刃 有村次左衛門、鯉渕要人、広岡子之次郎、山口辰之介

2 伝馬町牢獄他で落命した人 9名
裁きが決定する前に落命 佐野竹之介、斎藤監物、黒澤忠三郎
伝馬町牢獄で獄死 宮田瀬兵衛、滝本いの、後藤哲之介
上方で捕縛後、護送された伝馬町牢獄で獄死 佐久良東雄、島男也、大貫多介

3 処刑された人 8名
襲撃の実行 蓮田一五郎、大関和七郎、杉山弥一郎、森五六郎、森山繁之介、関鉄之介
襲撃に関与 岡部三十郎、金子孫二郎

 以下の人々は埋葬されなかった人々である。

4 江戸以外で自刃、獄死した人 10名
大坂で自刃・獄死 高橋多一郎、高橋庄左衛門、川崎孫四郎、小室治作、山崎猟蔵
京都で自刃 飯田忠彦
薩摩で切腹 有村雄助
水戸で自刃・病死 小野寺慵斎、木村権之衛門
鎌倉で自刃 広木松之介

5 生き延びた人
増子金八、海後磋磯之介、佐藤鉄三郎

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南千住 回向院 佐久良東雄遺墳 A- 1
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南千住 回向院 島男也之遺墳 A- 2
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南千住 回向院 大貫多助之遺墳 A-14
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南千住 回向院 蓮田市五郎遺墳 C- 5

 1から4の合計32名は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」の桜田門外事件に掲載されている人物と一致させた。

 岩崎英重の「桜田義挙録」は、最初の稲田重蔵、有村次左衛門、鯉渕要人、広岡子之次郎、山口辰之介等の遺骸が取り捨てになった際、非人頭の市兵衛に命じて出来るだけ鄭重に埋葬させた上で、一人一人に法名を付し懇ろに回向したと記している。また文久元年(1861)7月26日、伝馬町獄舎で、大関和七郎、岡部三十郎、金子孫二郎、杉山弥一郎、蓮田一五郎、森五六郎、森山繁之介の7名の斬首が執行されると、小石川の水戸邸から勘定方留役川又才介は水戸邸に出入りの商人・伊助と相談し、回向院の住職・川口厳考と謀り、屍体の取方付けを行っている。非人達には若干の金銭を与えて7名の屍体を貰い受け、これを稲田等の墓側に埋めている。その際、「後世発掘の際、弁別に便にせむが為めに、竪五六寸、巾三四寸、厚さ二寸斗の石に、氏名を各別に刻し、これを遺骸の上に据え、埋めて置いた。」つまり18×12×6センチメートル程度の石に氏名を刻み、一緒に埋葬したこととなる。「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)には、この標石の写真が所収(図版50~61)されている。この標石によって氏名と遺骨が一致し、改葬を行う際に取り違えることがなかった。

 桜田門外の変で殉難された人々に下記のような戒名を与えたことが「桜田義挙録」から分かる。

没日          戒名  年齢    氏名
万延元年 三月 八日  英実  三十九歳  斎藤監物
同  年 六月十七日  英称  三十二歳  黒澤忠三郎
同  年 三月 三日  英隆  三十九歳  山口辰之介
同  年 三月 三日  英節  五十一歳  鯉渕要人
同  年 三月 三日  英信  四十七歳  稲田重蔵
文久元年 七月二十六日 英義  二十七歳  森五六郎
同  年 七月二十六日 英仁  二十一歳  佐野竹之介
同  年 七月二十六日 英峻  五十八歳  金子孫二郎
同  年 七月二十六日 英輝  四十五歳  岡部三十郎
同  年 七月二十六日 英邦  三十九歳  杉山弥一郎
同  年 七月二十六日 英憲  二十七歳  森山繁之介
同  年 七月二十六日 英學  二十九歳  蓮田一五郎
同  年 七月二十六日 英毅  二十六歳  大関和七郎
文久二年 五月十一日  英寛  三十九歳  関鉄之介
文久二年 九月二十三日 英玄  三十二歳  後藤哲之介

 万延元年3月3日の戦闘に参加し、同日自刃した有村次左衛門と広岡子之次郎の2名の名前が見えない。有村は薩摩藩士であったので記述から漏れたのかもしれないが、広岡の名前がないのには何らかの理由があるのだろうか?

 南千住 回向院 その6でも触れたように、文久2年(1862)勅使・大原重徳が島津久光と薩摩藩兵を伴い江戸に入る。勅命を以って幕府人事に介入し、7月6日に一橋慶喜を将軍後見職、同9日には松平慶永を政事総裁職に任命させている。同月12日には政事総裁職松平慶永が戌午以降の国事犯者の赦免を主張し、幕議でのこれを容れることを決している。この頃から文久3年(1863)にかけて、安政の大獄で遠島や押込となった人々の赦免と同時に、斬首等に処せられた人々や牢獄で獄死した人々の名回復が行われていく。 文久2年11月20日、幕府は戌午以降の失政を罰するという名目で、彦根藩主井伊直憲に10万石の減封、村上藩主内藤信思、鯖江藩主間部詮勝の加増各1万石を削った上で詮勝に隠居謹慎、前小浜藩主酒井忠義、前佐倉藩主堀田正睦、前関宿藩主久世広周を蟄居に、前磐城平藩主安藤信正を永蟄居に処している。これは安政5年(1858)の井伊直弼の大老就任から、久世広周、安藤信正を含む4年間の幕政に携わった者に対する処罰であり、この間の政治に対して完全なる否定を行った。
 同月28日、今度は殉難者に対する赦免を行っている。「維新史料綱要 巻四」文久2年11月28日の条に下記のように記されている。

幕府、朝旨ヲ奉ジテ大赦ノ令ヲ布キ、故水戸藩士安島帯刀信立・同鵜飼吉左衛門知信父子・同茅根伊予之介・故福井藩士橋本左内綱紀・故萩藩士吉田寅次郎矩方・故処士頼三樹八郎等ノ建碑ヲ許シ、更ニ諸藩ニ令シテ国事ニ殉ゼシ者及刑ニ服スル者ヲ録上セシム。処士池内大学治基・元鷹司家家士小林良典元民部権大輔・元三條家家士丹羽正庸元豊前守・同森寺常安元因幡守父子・元青蓮院宮家士伊丹重賢蔵人・元久我家家士春日仲襄元讃岐守・元水戸藩士鮎澤伊大夫國維・元高松藩士長谷川宗右衛門秀驥・元宇和島藩士吉見長左衛門・医宇喜多 一蕙可恵・農世古格太郎延世・僧六物空萬等数十人、逐次釈放セラル。

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南千住 回向院 大關和七郎遺墳 C- 4
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南千住 回向院 杉山彌一郎遺墳 C- 8
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南千住 回向院 森五六郎遺墳 C-12

 幕府は戌午以来の刑死及び獄死した人々の改葬を認め、そして刑に服していた人々の赦免と殉難者として記録に留めることを各藩に命じている。これに従い、水戸藩も回向院に葬られた桜田門外の変の義士の改葬を行っている。岩崎英重の「桜田義挙録」には「(文久)三年十一月に烈士の遺骸を、各其郷里に帰葬することを許された。」とあるが、上記の通り文久2年の誤りであろう。

乃ち其の十七日頃から、前の川又と伊助は、水藩の有志及び、烈士有縁の者四五名と共に、回向院に詰切りにて、人夫を指揮し、一人づゝ掘り出して洗ひ清め、白羽二重の服に麻上下、仮製の大小を着佩せしめて、檜の一寸板なる寝棺に殮め、またこれを縦製の棺に納れ、更に大長持に入れ、二十日に至りて、用意が悉皆整ふたので、藩中の士有縁の者、三十名ほど来会し、酒食十分に行届きたる上、三十一の御用長持(桜田烈士のみならず、東禅寺、坂下門等に於ける諸烈士も共に)を、揃ひの衣服を着けたる、人夫に舁がせて立ち出でたが、其容体頗る盛なれば、追々聞き伝へて、これを見物するもの、群集をなし門前には屋台まで出たとの事である。

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南千住 回向院 森山繁之介遺墳 C- 6
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南千住 回向院 關鐵之介遺墳 C- 2
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南千住 回向院 岡部三十郎遺墳 C- 9
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南千住 回向院 金子孫二郎遺墳 C-10

 文久2年11月に水戸藩による改葬が上記のように盛大に行われたようだ。なお、その際に運び出された長持が31棹ということであり、桜田門外の変以外にも回向院に埋葬された水戸藩に関係する人々の改葬を行っている。掘り起こされた墓穴には土を入れて平らにし、その上には高さ二尺四五寸の石碑を建てたとしている。明治44年(1911)に刊行された「桜田義挙録」は「そは今回向院に現存する遺墳である。」と記している。

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南千住 回向院 歌碑 B-25
    偲ぶけふかな
花とちり雪ときえにし
   桜田の
  ますらたけを
         九十四叟田中光顕

「南千住 回向院 その9」 の地図


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南千住 回向院 その9 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
  回向院 35.7322 139.7978
01   泪橋 35.729 139.7994
02   延命寺 35.7316 139.7978
03   円通寺 35.734 139.7928
04   素戔雄神社 35.7371 139.796
05   荒川ふるさと文化館 35.7375 139.7954
06   千住大橋 35.7393 139.7973
07   千住宿 35.7505 139.8028
08   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331 139.7985
09   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412 139.7985

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