東福寺 芬陀院
東福寺 芬陀院 (とうふくじ ふんだいん) 2008/05/10訪問
東山本町陵墓参考地から再び東福寺の塔頭 芬陀院に向かう。伏見街道をさらに南下すると洗玉澗の流れと伏水街道第三橋で交差する。短い橋を渡りきると東福寺 中門が現れる。芬陀院は中門をくぐったすぐ右側にある。
芬陀院は元亨年間(1321~1324年)に時の関白一条内経が東福寺開山・聖一国師の法孫にあたる定山祖禅を開山として創建した。以後、一条家の菩提寺とされている。
元禄4年(1691)に堂宇を焼失したが、関白一条兼輝により再建された。しかし宝暦5年(1755)の火災により再び堂宇を失うも、桃園天皇の皇后恭礼門院の御所の一部が下賜され再興された。その後、明治32年(1899)昭憲皇太后から御内帑金を賜り改築したものが現在の芬陀院の建物である。
芬陀院が雪舟寺と呼ばれていることからも分かるように、書院南庭は寛政・応仁(1460~1468)頃の雪舟等楊禅師作によるものと伝承されている。
雪舟が幼い頃過ごした備中井山(岡山県)にある宝福寺は東福寺の末寺にあたるだけでなく、宝福寺の住職が芬陀院に転住したこともあり、雪舟が東福寺に来た際には芬陀院で起居することが度々だったようだ。そういう中で時の関白太政大臣一条兼良の好みにより庭園を作る機会を得た。この辺りの経緯が「動く亀石」という逸話として残っている。
芬陀院に寄寓している雪舟を見かけた一条兼良がは、幼少の頃涙で描いた鼠のことを思い起こし、その鼠の出来栄えに匹敵するような亀の絵を雪舟に所望した。しかし雪舟は筆を取ることなく数日を過ごしていた。ある日寺の者数名と土砂を運び込み庭石を動かし始めた。鶴栖和尚の見守る中、数日後に立派な石組みの亀がついに完成した。その夜、庭先から聞こえる物音で目覚めた和尚が戸の隙間から見たものは、石組みの亀が頭や足を動かして庭を這い回っている姿であった。びっくりした和尚は、翌朝すぐに関白兼良にこの亀石を申し上げたところ、関白は大変喜び雪舟の人並み外れた技を賞賛した。しかし和尚は夜な夜な庭先を徘徊する亀石に不安を感じ、雪舟に何とかならないかと懇願した。雪舟は笑いながら亀の甲に大きな石を突き立てた。これ以降亀石が動くことがなくなったという。
さらにこの話には後日談がある。雪舟を非常に気に入った関白兼良は雪舟のために一寺を寄贈することを申し出た。雪舟は安住の地を得ることより画の修行を望んだ。すでに日本には師として仰ぐにたる人物がいなかったことより、明での絵画修行を関白に願い出た。関白は快諾し、雪舟が渡明できる手はずを整えた。こうして明に渡った雪舟は、明においても自らの師を見出すことができなかったが、大陸の自然風物景色を最大の師として中国の水墨画を学び帰国することがかなった。
さて現在の芬陀院の庭に話を戻す。
堂宇を焼失する火災を二度も受け、自然による荒廃にまかせた時も長かったようで、近年まで本来の姿を失っていた。昭和12年(1937)重森三玲は日本庭園史図鑑(全26巻 1936~1939 有光社刊)への掲載のため、書院南庭 鶴亀の庭の実測調査を行い、その後復元を手がけた。その際、一石の追加も行わなかったということが芬陀院の拝観の栞に記述されている。更に昭和32年 京都府文化財保護委員会 中根金作の指導により白砂、樹木、その他周囲の整備が行われた。
南庭は書院に平行な砂紋の白砂の先に苔の緩やかなマウンドが形成され、右に二重の基壇の中心に天を突くような石が配置された亀石、左に羽を折り休む鶴石によって構成されている。先の動く亀石の伝説もこの奇異な形状から生まれたものであろう。
まずこの庭から受けた印象として、亀石が持つ垂直線の力強さである。低く二重の同心円状に配置された石の中央に垂直に伸びる石が置かれた姿は、亀島の上にある蓬莱山を表現しているだけでなく人工に作られたジッグラトにも見立てることもできる。
これに対して鶴石は丈の低い石を並べ、立体構成の上では亀石をの持つ垂直性を水平に展開する役割を担っているかのようにも見える。
鶴亀の庭と図南亭をつなぐ東庭は昭和15年(1940)に重森三玲によって作庭された。南庭に比べると小ぶりな石を配置し、鶴亀の庭の造形性と比べると平面的な構成に徹していることが分かる。この庭についても左右2つの石組みに分けられる。右側の一群は松の根元に置かれた石を中心に反時計回りの対数螺旋のように配置され、拡散するイメージを与えている。これに対して左側の一群は直線的に2石 5石 3石(左側より)と置かれている。
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