大橋家庭園 苔涼庭
大橋家庭園 苔涼庭 (おおはしけていえん たいりょうてい) 2008/05/10訪問
九條陵より再び東福寺の勅使門 六波羅門の前を通り、そし南門をくぐり伏見街道に出て、伏見稲荷大社を目指し南下する。伏見稲荷郵便局を過ぎると左手に鳥居が見える。京阪伏見稲荷駅から続く裏参道である。左に曲がり裏参道へ入っていくと先は二股に分かれている。右側は伏見稲荷大社へ続く道、左は住宅地の中へて続いている。左に曲がり道なりに進むと左手に大きな住宅の塀が現れる。門に案内板が出ているので、ここが大橋家であることが分かる。
事前に見学の申し込みを行ってはいたが、東福寺・九條陵で思いのほか時間がかかり、約束の時間にかなり遅れてしまった。来訪を伝えると大橋氏が玄関まで出てこられ、玄関左の客間に案内していただいた。大遅刻の上に、小雨とはいえ、ずっと外を歩いてきたためずぶ濡れ状態と非常にご迷惑な客であったことと思う。
客間から庭を眺めながらこの庭園の成り立ちを非常に丁寧に説明していただいた。4代前の大橋仁兵衛が明治44年(1911)に伏見稲荷大社の北側の土地を隠居用の屋敷として購入し造園に着手した。当時はほとんど人家もなく、鬱蒼とした森の中の庭として大正2年(1913)に完成した。頂いた栞には親交のあった7代目小川治兵衛(植治)の監修を得てとあり、12基の異なった意匠の石燈籠が左程広くない庭に配置されていることからもおそらく大橋仁兵衛の好みを最大限に活かして造園したのであろう。 「苔涼庭」は瀬戸内の鮮魚を扱う家業の大橋家と親交のあった網元の「大漁」を祈念して名付けられたと伝えられている。
玄関左手に庭に続く門より庭に入ると客間の前を通り、客間の右手に拵えた茶室風の離れに続くことからも露地風の庭を意識していることが分かる。説明を受けるまで気がつかなかったが、この庭には池や水の流れは一切ない。やや庭面を掘り下げ石の配置で天の川を表現している部分があるとのことだったが実際にはどの部分だったかは分からなかった。
またこの庭で特筆すべき点は京都最古の水琴窟を備えていることである。もともと手洗い場の排水設備であったが、時々良い音を出すことに注目した庭師により改良され日本庭園の一つの演出装置となった。水が溜まらないように粘土で底を固めた穴の中に、底に小さな穴の開けた甕を逆さに伏せ、土中に埋めるたものである。通常水琴窟の上には手水鉢が置かれ、そこから流れ落ちる水が甕の穴を通して滴り落ちる仕組みとなっている。水滴の音が甕内部で反響し土中から琴の音のような深く澄んだ音となって聞こえてくるためこのような名称となっている。
水琴窟は土中に埋めるものであるため、修復が困難であること。また長い年月の間に土砂が甕の中に入り込み音が出なくなることもあるそうだ。江戸後期に廃れたものを明治に入り再興したものの、昭和初期にはまた忘れ去られた存在となった。そういう意味で明治後期の水琴窟が2つ(正面やや左手側の下り蹲と客間と離れの間の縁側手洗いに設置)も現役で活躍していることは京都市の登録文化財にとなっている由縁でもあろう。
ここまで説明を受けた後、庭を拝見させていただいた。日が出ていないため、やや暗い印象も受けたが小さいながら新緑の美しさが映える庭という感じを得た。12基の石燈籠と2つの蹲と水琴窟という盛りだくさんの要素を個人住宅の庭の中に入れ、なおかつ一定のレベルの調和が取れていることを誉めるべき庭だと思う。個人的には2つの水琴窟よりは、庭に続く門へのアプローチ、縁側に置かれた蹲の周りの空間と離れの建築に面白さを感じた。
あらためて大橋さんにお聞きして分かったこと。上賀茂神社と社家のような関係は、伏見稲荷大社との間にないこと。庭の手入れは年2回「植治」が行っているが、それ以外にも自ら行わなければ維持できないこと。そして現在この住宅で生活しながら庭と客間を公開していること。
特に3番目については、阪神大震災のような大地震に襲われても大丈夫かという心配をお持ちのようであった。木造2階建てにも関わらず、庭に向かって大きな開口を持っている客間は明らかに耐震的な補強が必要とされるだろう。この庭は客間から眺めることを前提として作られているため、客間の位置を変更したり、柱を増やすことは、補修ではなく明らかに別ものを作ることになる。
国民共有の文化財と考え、個人の努力で維持してきた負担の大きさとその限界を思うと「行政が。。。」とは声高に叫ばないまでもナショナルトラストなどを含め歴史的遺産を継承していくことを市民レベルでもっと真剣に考えなければならないと強く感じた。
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