平野神社
平野神社 (ひらのじんじゃ) 2008年05月19日訪問
引接寺を出て千本通を南に下る。五辻通を西に入り、大報恩寺を目指す。既に17時に近かったためか、五辻通に面した山門は閉じられていた。七本松通に面した西門に回ると、まさに門を閉め終わったところであった。大報恩寺には日を改めて訪問することとし、今出川通のから上七軒の停留所より市営バス50号に乗車する。北野天満宮の前を通過したバスは、北野白梅町を右折し、西大路通を北上する。木々の緑の濃い平野神社を通過し、次のわら天神の停留所で下車する。上立売通の交差点に近くに建つ鳥居を潜り境内に入る。
延暦13年(794)の平安京遷都に伴い、平野神社の創建されている。祭神は今木神(第一殿)、久度神(第二殿)、古開神(第三殿)、比売神(第四殿)の4柱である。平城京の田村後宮(桓武天皇の父光仁天皇の御所)に祀られていた今木神、大和平群郡の久度神社に祀られていた久度神・古開神を、桓武天皇は平安京に遷座・勧請している。この3柱は源気新生、活力生成の神、竈・台所・食事の神、そして邪気を振り開く平安の神であり、もとより宮中の健康や平安に関わる神々であった。第四殿の比売神は承和年間(834~47)に合祀されている。
延暦元年(782)続日本紀に
「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」
とある。文徳天皇の御世 嘉祥3年(850)から天安2年(858)までの8年間を編纂した歴史書である日本文徳天皇実録にも平野神宮の記述が残されており、仁寿元年(851)には今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられていたことが分かる。神階はその後も上がり、貞観5年(863)久度神と古開神が正三位に、比売神が従四位上に叙せられている。そして翌6年(864)に今木神が正一位の位を授けられている。
延喜式神名帳には
「山城国葛野郡 平野祭神四社」
と記載され、名神大社に列している。二十二社註式では、上七社の第五位に平埜社として列せられている。他の6社は太神宮社、石清水社、賀茂社、松尾社、稲荷社、春日社であるから、平野神社の神階と社格の高さが分かる。当初の平野神社は方八町余(1.5キロメートル四方)、現在の京都御所とほぼ同じ規模であった。しかし時の変遷に伴い現在は200メートル四方程度となっている。
再び祭神について考えてみる。
今木神の「木」は「来」の当て字で、新たに来た人々が祭る神の意味を持っている。大和国高市郡今木の地に住みついた渡来系の人々によって祭られていた神で光仁天皇の夫人であり桓武天皇の母となる高野新笠の祖神とされている。新笠は百済系渡来人の武寧王から10代目で、6代前に日本名にして帰化をした和氏一族の出身とされている。後に平氏の氏神となっている。
今木神が新笠の父方の和氏の祖神であったとすれば、竈・台所・食事の神である久度神は母方の土師氏の神でもあったと考えられている。古開神は久度神と共に大和国平群郡より遷座されていることから、こちらも渡来の神と見られている。
江戸時代の国学者である伴信友は、今木神以下は歴代の百済王であるという説をその著作 蕃神考以降に流布しているが、現在の平野神社の公式HPでは異説として扱っている。なお、この由来には渡来者との関係が触れていないことから、あまり触れて貰いたくないことかも知れない。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には平野神社の説明が下記のように記載されている。
「平野社は北野より乾にあり、祭れる神四座なり、源平高階大江此四姓の氏神なり。
第一今木神〔日本武尊、源氏〕
第二久度神〔仲哀天皇、平氏〕
第三古開神〔仁徳天皇、高階氏〕
第四比米神〔天照大神、大江氏〕
県社は天穂日命〔中原、清原、菅原、秋篠〕四姓の氏神なり、やしろは桓武天皇延暦年中に建立せり。御くらゐは正一位、清和天皇貞観六年七月十日にさづけ奉れり。例祭は九月上の申の日なり。」
このことは、玄松子さんのHP 玄松子の記憶に記載されている和漢三才図会でも同じ内容となっている。
桓武天皇は外戚の父方・母方の氏神を合祭して新しい都の皇太子守護神とし、桓武天皇子孫への皇位継承を確実にしていくために創始されたとも考えられる。延喜式には皇太子御親祭が定められた神社とされているため、代々の皇太子も自ら奉幣を行っている。長岡京造営から平安京遷都、そして早良親王の配流と憤死などが起こり、天皇家の継承に不安が漂っていた情勢を考えると平野神社に任された役割が何となく分かってくるような気がする。
このように平野神社は、宮中の崇拝の他にも臣籍降下の流れを汲む公武に尊崇されてきた。特に奈良時代末期から臣籍降下制度が定まり、源氏・平氏をはじめ高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏の氏神となっている。
本殿は東向きの平野造あるいは比翼春日造と呼ばれ、一間社春日造の四殿を二殿ずつ連絡し、左右両殿の間に横棟を渡した合の間、正面に向拝がある様式となっている。北から順に今木神、久度神、古開神そして比売神が祀られている。なお東向きの配置は、宮中神であったことの名残と考えられている。南殿は寛永2年(1625)、そして北殿は同9年(1632)に建立されている。これらは国の重要文化財に指定されている。
摂末社として、玉垣内の本殿南に摂社縣社。拝殿の北側には境内社として西から春日神社、住吉神社、蛭子神社、八幡神社の末社が、参道に出世導引稲荷神社、猿田彦神社の二社が祀られている。
拝殿は慶安3年(1650)徳川秀忠の娘で後水尾天皇の中宮となった東福門院が建立している。内部には、寛文期(1661~1672)近衛基煕書、海北友雪画の三十六歌仙が飾られている。
南門は慶安4年(1651)御所の旧門を下賜されたもので、昭和18年(1943)に現在の東大鳥居の位置から南門として移築されている。
昭和9年(1934)の室戸台風の時に起きた倒木により本殿・諸殿舎等が甚大なる被害を受けた修復工事として東神門、回廊、東大鳥居、手水舎、西と北の五筋塀が再建されている。また同じ時期に西大路新設事業が行われることとなり、西大路六車線分を割譲することとなる。これらの事業は昭和18年(1943)に竣工している。
西大路通に設けられた西大鳥居から入ると桜苑が広がる。平安時代の寛和元年(985)花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源とされている。そのため平野神社の神紋も桜となっている。この桜苑の中を東北に進むと回廊と東神が現れる。境内には入ることが出来たが、残念ながら神門は既に閉められていた。この神門の西側に拝殿と玉垣内には平野造の本殿が配されている。先の都名所図会に描かれた図会には東神門の中の様子をよく伝えている。大報恩寺とともに今一度訪問が必要である。
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