木嶋坐天照御魂神社 その2
木嶋坐天照御魂神社 その2(このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 2009年1月12日訪問
木嶋神社の起源は定かではない。続日本紀の大宝元年(701)4月3日の条にこの神社の名があることからそれ以前から祭祀されていたことが分かる。延喜5年(905)醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、延長5年(927)に一応完成をみた延喜式では、名神大社に列し月次・相甞・新甞の官祭を受ける社として記載されている。山城国式内社122座、葛野郡の20座(葛野坐月讀神、木嶋坐天照御魂神社、堕川神社、阿刀神社、松尾神社二座、深川神社、堕川御上神社、櫟谷神社、平野祭神四社、梅宮坐神四社、天津石門別稚姫神社、伴氏神社、大酒神社)の内の1座を占めている。この神社がある嵯峨野一帯は、朝鮮半島を経由して渡来した秦氏が製陶、養蚕、織物などの技術を持ち込んでいる。木嶋神社の境内に蚕が祀られているのもその由縁である。秦氏と太秦については改めて項を起こし記すこととする。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の木嶋社(蚕社)には図会が残されている。八角の鳥居から石橋、拝殿、本殿が一列に並び、その西側に三柱鳥居が池というよりは小川の中に建てられているように見える。また境内にはいくつかの摂社も見える。またこの図会には下記のようなことが記されている。
木島社は太秦のひがし森の中にあり。天照御魂神を祭る、瓊々杵尊大己貴命は左右に坐す。蚕養社は本社のひがしにあり、糸わた絹を商ふ人此社を敬す。西の傍に清泉あり。
世の人元糺といふ、名義は詳ならず。中に三ツ組合の木柱の鳥井あり、老人の安坐する姿を表せしとぞ。当所社司の説
ほぼ江戸時代中期の姿が、現在に伝えられていることが分かる。ただし現在の拝殿、本殿そして蚕養神社の東本殿は明治以降の再建である。また池の中の石造の三柱鳥居も天保2年(1831)に再興されたものとされている。ちなみに「北斎漫画」の第十一集に「三才鳥居」がある。もちろん北斎漫画は、葛飾北斎の画集であり、文化11年(1814)頃に纏められたものである。国会図書館の近代デジタルライブラリー収められている北斎漫画十一編の31/33で確認する事ができる。これを見ると木造の明神鳥居を三つ組んだ三柱鳥居であることが分かる。
また笠木は井桁状に組まれ貫は柱の外側まで出ている。現在の木嶋神社の三柱鳥居は明神鳥居である。しかし鳥居自体が石造であり、貫は八角形の柱を貫いていない。この2点が北斎漫画と異なっている。先に触れた都名所図会に描かれた三柱鳥居も現在の石造の鳥居と同様に貫は柱を抜けていない。年代的には安永9年(1780)の都名所図会、文化11年(1814)頃の北斎漫画そして天保2年(1831)の再興ということになる。北斎漫画が木嶋神社のものをそのまま写実したかは定かでない。
もともと鳥居は、神社などにおいて神域と人間が住む俗界を区画するものであり、神域への入口を示すものであり、一種の結界への門の役割を果たしている。ところが木嶋神社の三柱鳥居は、そのような俗界と聖域とをつなぐ門ではないように思える。都名所図会に描かれている三柱鳥居は、北側、南東、南西に向かって開いているように思える。現在の三柱鳥居は、南側、北東、北西に向かって開いていた。すなわち頂点を北側に向けた正三角形の形で配置されている。都名所図会の三柱鳥居は、境内を分かりやすく説明できる構図に合わせて描かれたと考えることもできる。この正三角形の頂点は北の双ヶ丘すなわち秦氏の古墳と見なされている双ケ丘1号墳、南東の稲荷山そして南西の松尾山を指し示しているという記述が多く見られる。また正三角形を2つ組み合わせたダビテの星、あるいは三柱鳥居=景教の遺物説からパワースポットの一つとして取り上げられるようになっている。
現在、元糺の森にある池は枯渇している。北側の双ヶ丘に降り注いだ雨水が、木嶋神社北側の地下を通り、池に湧き水として注いでいたのであろう。近隣の宅地開発が行われ地下水脈が途絶えたのであろう。
なお南禅寺大寧軒の茶庭にも明治期に設計された石造りの三柱鳥居がある。Google Mapを見る限りこちらの三柱鳥居の正三角形は、北を向いた木嶋神社とは異なり南を向いた逆三角形となっているようだ。
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