井上源三郎埋葬推定地
井上源三郎埋葬推定地(いのうえげんざぶろう まいそうすいていち) 2008/05/11訪問
八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地から再び府道124号を納所交差点方向に戻る。途中、右に折れると小さな流れが現れる。護岸は整備されていたが、昔は湿地帯の中をこのような小川が無数流れていたのではないだろうか。
橋を渡り、UR都市機構伏見納所団地の中を進む。旧京阪国道に出る箇所に、五輪塔型の鳥羽伏見之戦地跡地碑と書かれた碑がある。建立者が明記され、昭和47年(1972)に建てられたことも分かる。八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地が昭和45年(1970)に整備されてから後にこの碑が建立されている。古地図を見ても、もともと池であった場所であったため戦跡地でもなく、埋骨地でもないためどうしてこの碑がこの地に建てられたかよく分からない。この碑に出会った時には、広い意味での鳥羽伏見の戦の戦跡碑というように理解していた。後で幕末史蹟研究会の「淀」のページにこの碑についての由来が書かれていることを知ったが、確認はできていない。
この鳥羽伏見之戦地跡地碑から旧京阪国道を南西に400メートルくらい進むと、左手に辨慶淀店といううどん屋さんが現れる。街道に面した飲食店のため、店前に駐車スペースを持っている。そのためここだけ建物が町並みから後退しているので、場所を間違えることがないほど分かりやすい。
すでに井上源三郎資料館のHPでは市川三千代氏による「井上源三郎埋葬地を訪ねて」によってこの地が井上源三郎の首級と刀が埋められたと推定していた。
井上源三郎は近藤勇や土方歳三とともに多摩の天然理心流・試衛館で剣を学び、文久2年(1862)清河八郎の浪士組に参加し、翌文久3年(1863)3月に上京する。この後、文久3年8月に発生した八月十八日の政変への出動が認められ、新選組という隊名が与えられる。元治元年6月5日(1864)の池田屋事件、7月19日の禁門の変と新選組という存在の拡大とともに、井上源三郎も副長助勤から六番隊組長になり、新選組の欠かすことのできない幹部となっていく。
慶応4年(1868)1月5日千両松において被弾し、同日戦死する。どのような状況でどこに被弾したかも明らかではないが、甥の井上泰助が源三郎の首級と剣を持って撤退した。泰助は慶応3年(1867)に11歳で新選組に入隊し、局長近藤勇の刀持ちを務めていた。新政府軍の進軍を食い止めながら、首級と刀を持っての撤退は12歳の泰助には負担が大き過ぎ、隊から遅れるようになったのだろう。淀小橋を渡る前に他の隊士から促され、とある寺の前の田圃に埋葬したと言われている。
明治になってから泰助は埋葬地のことを息子夫婦(井上覚太郎と妻ケイ)に言い伝えていたのだろう。後にケイさんによって寺の名前が「欣浄寺」と明かされたが、たまたま井上家の向かいに同じ欣浄寺があったため、老齢なため混同してしまったのだろうと思われたようだ。既に淀の欣浄寺は安政年間(1854~1859)に廃寺となっていたのでその存在を探すこともできなかったのだろう。それにしても大切に聞き伝えてきたことをボケとして扱われたのでは、ケイさんにとってはあまりにも可哀相なことだ。そのケイさんも昭和56年(1981)に亡くなられ、それ以降井上源三郎の埋葬地を特定できるものは無くなった。
井上源三郎資料館の館長である井上雅雄氏にとってケイさんは祖母にあたり、小学生時代に郷土史家の谷春雄氏が聞き取り調査を行っていたことを覚えている。確かに欣浄寺は一度否定されたが、その後の市川氏の調査で淀の欣浄寺が現れた時、ケイさんの話は再び浮上してくる。これは新選組あるいは日野の郷土史を長い時間かけて調査してきたことの成果だと思う。
ちなみに日野にある井上源三郎資料館の向かいには今も欣浄寺がある。
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