ホテルフジタ京都
ホテルフジタ京都(ほてるふじたきょうと) 2008/05/15訪問
鴨川にかかる二条大橋の西詰めに吉村順三設計による昭和45年(1970)竣工のホテルフジタ京都が建つ。こちらのホテルには一度予約を入れたことがあったが、三宮で阪神大震災に遭い、神戸から京都へ移動することができず、泣く泣くキャンセルの電話を入れた思い出がある。残念ながら今回もこちらに宿泊する予定を組むことができなかった。またいつか機会があれば一度訪れてみたいと思う。ホテルフジタ京都の敷地の北端に、藤田伝三郎の別邸 夷川邸が残されている。
藤田伝三郎は明治期の関西財界の重鎮で、藤田財閥の創立者。建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞、などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いている。
伝三郎は天保12年(1841)長州藩萩の酒屋の四男に生まれる。家業は醸造業のほか、藩の下級武士に融資をおこなう掛屋を兼営していた。維新の動乱期に、高杉晋作に師事して奇兵隊に投じ、木戸孝允、山田顕義、井上馨、山縣有朋らと交遊関係を結ぶ。この人脈がのちに政商として活躍する素因となった。明治になると伝三郎は、大砲・小銃などの払い下げ、大阪で革靴の製造、建設業などと事業を広げていく。そして明治10年(1877)の西南戦争において、陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までを行い、三井、三菱と並ぶ利益を上げる。明治12年(1879)に発生した藤田組贋札事件により、陸軍や大阪府からの発注が途絶えた。しかし明治14年(1881)それまでの藤田伝三郎商社を藤田組(現DOWAホールディングス株式会社)に組織替えして再出発を図る。
藤田組は鉄道建設をはじめとし、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの工事を請け負う。同16年(1883)には後の東洋紡績の前身となる大阪紡績を立ち上げる。秋田県の小坂鉱山の払い下げを受け、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させる。南海電鉄のもととなる阪堺鉄道や後に国鉄に吸収された山陽鉄道を手がけると共に、宇治川水力電気が関西電力に、北浜銀行が三和銀行へとつながる創設に指導的役割を果たす。また大阪日報を大阪毎日新聞として再興するのにも貢献している。このように、多角的事業経営が財閥の形成につながっていく。
洛翠の項でも触れたように、洛翠の元の持ち主である藤田小太郎も伝三郎の甥にあたる。伝三郎は美術品の収集家としても知られ、大阪市都島区綱島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館には膨大な量の藤田コレクションが遺されている。美術品以外にも伝三郎は、大阪本邸を太閤園、東京別邸を椿山荘、箱根別邸を箱根小涌園そして京都別邸をホテルフジタ京都として現在に遺している。
高瀬川の項で記したように、江戸時代初期この辺りには角倉家の馬場屋敷が置かれ、高瀬川支配を行っていた。ホテルフジタ京都の敷地もその一部分だったと考えられている。
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