詩仙堂丈山寺
曹洞宗大本山永平寺派 詩仙堂丈山寺 (しせんどうじょうざんじ) 2008年05月20日訪問
曼殊院道を西に下り、小川に架かる橋まで進む。ここで南に折れ、清賢院、西圓寺そして圓光寺の前を通り南に下ると、一乗寺下り松と八大神社を結ぶ道に行き当たる。詩仙堂はこの八大神社の西隣である。
詩仙堂は、曹洞宗大本山永平寺派の寺院で、六六山詩仙堂丈山寺 凹凸窠が正式な名称となっている。凹凸窠とは、でこぼこの土地に建てられた住居の意味である。実際に詩仙堂の建物や庭園は、山の斜面に沿って段状に作られている。開基である石川丈山は詩仙の間を含め、建物や庭の10の要素を凹凸窠十境と見立てている。
凹凸窠十境
小有洞 山茶花の樹の元にある表門
老梅関 参道の先にある中門
詩仙堂 36詩仙の額を飾る詩仙の間
猟芸巣 石川丈山の読書室
嘯月楼 2階の楼閣
躍淵軒 入口近くにある侍童の間
膏肓泉 猟芸巣の脇にある井戸
洗蒙瀑 蒙昧を洗い流すという滝
流葉はく(さんずいに陌) 滝水が流れ込む浅い池
百花塢 下段の様々な花を配した庭
石川丈山は天正11年(1583)三河国泉郷の代々徳川家に仕える譜代武士の家に生まれている。慶長3年(1598)徳川家康の近侍となり、その忠勤ぶりに信頼を寄せられる。しかし慶長20年(1615)大坂夏の陣で先陣争い禁止した軍規違反を犯し、一番乗りで敵将を討ち取っている。論功行賞を得るどころか蟄居の身となる。丈山は武士を捨て、妙心寺に入る。
元和3年(1617)頃、林羅山の勧めにより藤原惺窩に師事し儒学を学ぶ。藤原惺窩は豊臣秀吉・徳川家康にも儒学を講じており、家康には仕官することを要請されたが辞退している。この時、門弟の林羅山を推挙したことにより、初期の徳川幕府の土台作りに大きく関わり、様々な制度、儀礼などのルールを定める。さらに林家の当主は大学頭を継承し、幕府機構の中に取り入っていた。徳川家を去った丈山が幕府の中核にあった羅山から学ぶことは出来なくても仕官を辞退した師の惺窩を紹介することは出来たのであろう。ちなみに羅山と丈山は同じ天正11年(1583)に生まれている。
しかし惺窩は元和5年(1619)に亡くなっているため、惺窩に師事していた期間はそれ程長くはなかったのだろう。また丈山には仕官の誘いが多かったようだ。病気がちな母を養うために、元和4年(1618)紀州和歌山の浅野家に数ヶ月、また板倉重宗の勧めに従って安芸広島藩の浅野家に元和9年(1623)から13年間仕えている。板倉重宗は、父の勝重の跡を継いで元和5年(1619)から承応3年(1654)まで京都所司代に就いている。初期の徳川幕府において京での朝廷対策を任されていた人物ともいえる。このような接点が後の丈山スパイ説につながっていったのだろう。
寛永12年(1635)丈山の母が亡くなると、丈山は浅野家に引退を願い出たが許されなかった。しかし翌年半ば強引に退去し京に出て相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲し始めた。これが寛永13年(1636)丈山54歳のこととされている。この睡竹堂は現在、生国の安城市の丈山苑に学甫堂として遺されている。この時期、所司代の板倉重宗は、丈山に幕府への仕官をすすめているが、不調に終わる。そして寛永18年(1641)丈山は一乗寺の地に終の棲家として詩仙堂を落成する。
丈山は洛東の隠者木下長嘯子の歌仙堂に倣い、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙としている。木下長嘯子は高台寺の項で触れたように、永禄12年(1569)北政所の兄である木下家定の嫡男・勝俊として生まれている。豊臣秀吉に仕え、数少ない縁者として重用されている。播磨国龍野城を与えられ、小田原征伐や朝鮮出兵にも参陣し、若狭国後瀬山城8万石が与えられている。しかし慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは東軍に属し、鳥居元忠と共に伏見城の守備を任される。しかし西軍が攻め寄せる前に城を逃れた結果、その責を問われて改易される。慶長13年(1608)父家定の死去にあたり、北政所らの周旋によって遺領である備中国足守2万5千石を継いだが、弟の利房と争うこととなり、再度改易されている。その後は京都東山に隠棲し、林羅山や松永貞徳ら文化人らと親交を持つ。現在高台寺圓徳院の境内に歌仙堂があるが、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の歌仙堂(大雅堂)では以下のように詳しく記述されている。
「歌仙堂 又の名は大雅堂といふ、双林寺境内門前の北にあり。別室に観世音を安置す、金銅仏、長は五寸五分許なり〕此堂の名を歌仙堂といふは、ちかきとし池野秋平といふ風流の人ありけり。和歌は冷泉家の門に入て、書画を善す、名は無名、字は貸成とつきて大雅堂といふ。今より十とせあまり一とせのむかしに歿せられき。其門葉其址を空しくせんもびんなき事とて、古へ霊山にて天哉翁長嘯子がいとなみ給ひし歌仙堂の古き柱礎などありしを、かの山の坊よりもらひ、これを基としこゝに建て、楼の上に六畳下に六畳の莚を敷て、歌仙堂の旧蹟をとゞむ。」
大雅堂は、長嘯子が霊山に建立したし歌仙堂の柱礎などを双林寺境内門前の北に移し、建てられたとしている。恐らく高台寺よりもう少し東の高台に長嘯子の歌仙堂があったと思われる。丈山は武を捨て、文の世界に入っていった長嘯子に自分の姿を擬えたのだろう。
石川丈山は、中国文学に明るく漢詩に秀でていただけではなく、隷書を得意とする書家でもあった。かつて後光明天皇の勅により、隷書を作って献上し酒肴を賜ったとされており、親交のあった林羅山も「本邦では丈山ごとき者はみたことがない」としている。ちなみに後光明天皇は後水尾天皇の第4皇子で、明正天皇のあとを継ぎ、寛永20年(1643)に即位している。詩仙堂の建築と同様に、丈山の書にも束縛に囚われることのない自由さが見られる。
また丈山は、渉成園の作庭者とされている。この東本願寺の飛地別邸は、寛永18年(1641)3代将軍家光の寄進を受けたことより始まる。承応2年(1653)第13世法主宣如は、この地に隠居所を造営し周囲を枳殻の生垣で囲んだ。このことから枳殻邸とも称されている。庭園は池泉回遊式ではあるものの東山を借景として西から東側を眺めるように造られている。すなわち東側に全敷地の6分の1を占める広大な印月池、西側に書院造りの建物を配した構成となっている。この承応2年(1653)は、詩仙堂に建設された寛永18年(1641)より後のこととなる。一乗寺で隠遁生活に入っていた丈山が、わざわざ京都市内まで出ていくものかという疑問も感じる。いずれにしても東本願寺は、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)、烏丸六条の四町四方の寺領が徳川家康より寄進され、本願寺を分立している。そのように徳川色の強い仕事を、徳川家を去り隠遁した石川丈山が手がける事となった背景に何があったのだろうか?
さらに煎茶の始祖の一人として石川丈山をあげられている。承応3年(1654)隠元禅師が多くの門弟を従えて、わが国に渡ってきている。禅師は後水尾法皇や徳川幕府の手厚い保護のもとに、京都宇治に黄檗山万福寺を建立し、黄檗宗をひろめると同時に、明の文人に流行していた煎茶の風習も伝えている。形式に囚われるようになっていた抹茶の世界に飽き足らなくなっていた文人たちは、この煎茶の世界に魅了され、瞬く間に広まって行ったとされている。石川丈山も感性の鋭い同時代人として、この流行の中に入っていたのであろう。
漢詩、隷書、作庭そして煎茶と実に多くの分野に興味を持ち、それぞれの大家となっているところに石川丈山の才能の広がりを感じる。寛文12年(1672)90歳で没す。
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