円通寺 その2
臨済宗妙心寺派大悲山 円通寺 (えんつうじ) その2 2008年05月20日訪問
円通寺の項でも触れたように、後水尾上皇は正保4年(1647)より長谷と岩倉の山荘に行幸を重ねてきた。そして慶安元年(1648)4月にも長谷の山荘に行幸し田植えを見学している。翌慶安2年(1649)9月には東福門院、顕子内親王そして明正上皇を伴い長谷と岩倉を訪れている。上皇はこの行幸において幡枝で観月の宴を開いている。これが最初の幡枝への行幸であり、幡枝御殿の上御茶屋であったと考えられている。
小沢朝江氏の論文「後水尾院の幡枝御殿について 円通寺への下賜の否定と位置・沿革の検討」(日本建築学会大会学術講演梗概集 1995年)によると、円通寺の地に幡枝御殿があったとしたのは、庭園研究家・森蘊としている。(「修学院離宮の復原的研究」 奈良国立文化財研究所学報 1954年)これに対して小沢氏は、現在の叡山電鉄鞍馬線の木野駅の北側に幡枝御殿があったとしている。
上皇が幡枝御殿を使用したのは、慶安2年(1649)9月から明暦3年(1657)3月とされている。この前年の明暦2年(1656)は後水尾上皇が修学院離宮造営を始めた年とされている。そして鳳林承章の日記「隔冥記」によると万治2年(1659)に下御茶屋に招待されていることから、この時期には既に完成していたこととなる。すなわち、修学院離宮の造営後は幡枝御殿への行幸が成されていなかったこととなる。そして幡枝御殿は寛文12年(1672)近衛家に「幡枝御山」は下賜される。
つまり小沢氏は、寛文12年(1672)に近衛家に下賜された幡枝御殿を、円光院文英尼が買い戻し延宝6年(1678)に円通寺として開山したことに不自然さを指摘し、文英尼は正保5年(1648)に既に綾小路家より円通寺の土地を山荘として購入していたとしている。寛永14年(1637)の京極忠高の没後、文英尼は出家しているので、この正保5年(1648)の土地購入も可能である。また鳳林承章の「隔蓂記」には、既に寛文2年(1662)には、円光院が幡枝に住んでいたとしている。その上同年に霊元天皇の行幸を受けている。確かに近衛家から幡枝御殿を買い取ったのでは間に合わない。円光院が幡枝の中で移り住んだという可能性は残るものの、小沢氏の説は一応理にかなっている。
幡枝御茶屋は、御殿・寿月観、御茶屋・鷺聴亭、そして山上に位置する邇遐の3棟の建物で構成されていたと考えられている。なお、円通寺の拝観の栞では、後水尾上皇が修学院離宮造営後、円光院文英尼を迎え禅院に開創したとしており、近衛家への下賜には触れていない。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の円通寺には、始めは円光院文英尼公の宅地であり、妙心寺龍泉庵の本如実性禅師を開山として寺院としたとしている。そして後水尾院の御祈願所となり、行幸の御茶亭があると記している。つまり上皇の山荘・幡枝御殿については触れず、御茶屋に行幸があったことを述べるのみである。
不許酒肉五辛入門の石塔が建つ山門を入る。よく見かける不許葷酒肉入門.ではないが、五辛は葱、葫、韮、薤、蘭葱を指すため、同じ意味である。円通寺には本尊の聖観音菩薩を安置する本堂(方丈)と不空羂索観音を祀る海音堂(観音堂)そして御幸御殿(客殿)の3つの堂宇と小振りな庫裡がある。この不空羂索観音は日本黄檗宗の祖・隠元が中国より請来したと言われている。
山門と庫裡の間には盤陀石が置かれている。これは先の拾遺都名所図会にも
「此地の庭造小堀遠州の好にして、東の方より比叡山を庭中へ採、奇景真妙にして、盤陀石といふ名石あり」
と記されている。また図会にも御殿庭園の北東部分に盤陀石が描かれている。中田勝康氏の公式HPによると、経済状況が悪かった頃に処分したものを後年になって買い戻したとしている。そのため庭に戻すことが出来なかったのかもしれない。 この拾遺都名所図会と現在の円通寺を比較すると色々な違いが見えてくる。
軒を低く抑えた御幸御殿から見る霊峰比叡山の姿は実に美しい。左右非対称の優美な曲線が描く稜線は、他の山に置き換えることのできない強い印象を見るものに与える。正伝寺からもほぼ同じ眺めが得られるが、明らかに違うことはその姿の大きさである。もし後水尾上皇がこの比叡の姿を愛で、この地に離宮造営を検討したとしたら、やはり比叡山から幡枝までの距離が適切であったからであろう。この比叡の眺めは、例えば修学院離宮の神御茶屋から見るパノラマ画ではなく、かなり横長なフレームで計画的に切り取った絵画に見える。
この庭は比叡の借景が存在することから始まっている。次に、「それを活かすために何をすべきか?」が考えられている。手前の石は大部分を土中に埋め、奥の石はそれより少し多く姿を出している。そして約40個の石は、中央の比叡を避けるように左右に配されている。もしこの借景がなかったら、この石組みは非常に淡白に見えるだろう。拾遺都名所図会では小堀遠州好みとしているが、作庭者は不詳。妙心寺雑華院と酷似していることから、小堀遠州の高弟の玉淵坊日首の作との説もある。
この控えめな石組みと借景の間に、生垣を巡らせている。この濃い緑の生垣が視線を調整するだけでなく、庭園のイメージを引き締めている。どの位の高さがあるのだろうか?もしかしたら1200ミリ以上の高さがあるかもしれない。それでなければ御殿の真中から見た時、足元の町並みが見えてしまうだろう。あるいは昔と比較しても生垣の高さを上げているのかもしれない。
そして次の演出は、生垣に沿って植えられた杉の木立である。おそらく5ないし6本の木が植えられているが、直線状に並んでいないようで、その内の1本は生垣の中に半分入り込んでいる。また間隔も均等でない。なぜか御殿の中央から比叡山を眺めると、頂上に木立がかかるようになっている。ルネ・マグリットの白紙委任状を思わせるような演出である。「わたしたちの思考は、見えるものと見えないものの両方を認める。」とはマグリット自身の言葉である。また座敷と広縁の二重に柱が立てられているため、建物内から比叡山を眺めることは、林の中からの眺望にも思える。 ところでこの杉の木は何時植えられたのだろうか?先の拾遺都名所図会では見ることが出来ない。あるいは意図的に描いていないのかもしれない。例えば日光杉並木は寛永2年(1625)植樹に着手しているが、これに比べると円通寺の杉の木は若いようにも見える。もしこの庭が作庭されてから、かなりして植えられたとしたら、当初の風景は現在とかなり異なったものであろう。
それにも関わらず、ここに離宮が築かれなかったのは修学院離宮の欲龍池のような大規模な池泉の水を確保できなかったからと言われている。既に後水尾院の中には理想とする山荘のかたち(上下二段構成の御茶屋と舟を浮かべられる池泉)が明確に描かれていたことが分かる。
ところで円通寺は数年前まで、この庭園を含めて撮影禁止だった。しかし寺域周辺まで開発が迫り、現在の姿を将来に残すことが困難であると考え、庭園のみは撮影ができるようになった。ここに写真を掲載できたのもその“お陰”とも言える。床に座り庭と対面している時には気がつかなかったが、立ち上がると生垣の向うの下方に民家の屋根が確かに見えるようになっている。それでもボリュームを上げた説明をエンドレスで流すのだけは止めて欲しい。この美しい景色を守るためとはいえ、明らかに美に対する破壊行為である。これでは得られるシンパシーも失うことになるのではないか?
拝観後、庭の生垣の裏側の道を下り、バス停に向う途中で見かけた光景は、大規模な宅地開発がまさにこれから始まろうとしているものであった。
幸いというには遅過ぎたが、2007年9月より京都市により新景観政策が実施され、38箇所の眺望景観保全地域が設定された。円通寺もこの中に含まれているので、ひとまず借景の危機は回避できそうである。25年以上前に訪れた時、非常に辺鄙なところへ時間をかけて行った記憶が残っている。しかしこれからここを訪れる人が、後水尾院の“里から離れた山荘での清遊”に思いを馳せることができるのだろうか?時を隔てた現在に当時と同じイメージをいだけることが “後水尾院の遺産”だったはずである。
もし興味があれば、spiduction66さんのブログ 上大岡的音楽生活 に、掲載されている京都、円通寺裏定点画像をご覧下さい。この30年間の都市化という名で行われた破壊行為の経過が読み取れる。
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