宝ヶ池
宝ヶ池 (たからがいけ) 2008年05月20日訪問
岩倉の実相院門跡の前から京都バス・四条河原町行きに乗車し、最後の訪問地・蓮華寺を目指す。花園橋停留所で下車した後、高野川の上流に向かって歩いていく。叡山電鉄三宅八幡駅の前で高野川の北岸に渡り、大原から若狭へと続く国道367号・鯖街道を東に進む。蓮華寺の駐車場の先を左に入ると蓮華寺の山門が現れる。花園橋から徒歩15分、17時直前に山門を潜ることができたが、残念ながら拝観は既に終了した旨を告げられる。再訪を期して、京都バス・上橋停留所から国際会館駅行きに乗車する。まだ日が高いので宝が池公園を最後の訪問地とする。
宝ヶ池は深泥池のような高層湿原とは異なり、江戸時代の中頃に農業用水確保のために建設された溜池である。池の地元である松ヶ崎の農民の負担によって完成している。松ヶ崎の地名は北山通の南北に広がるが、大文字五山送り火の「妙」「法」の場所と言ったほうが分かりやすいかもしれない。安永9(1780)に刊行された都名所図会に掲載されている松ヶ崎の図会には、妙泉寺と本涌寺が描かれている。現在の市立松ヶ崎小学校あたりを描いたものと思われる。この妙泉寺と本涌寺は大正8年(1919)に合併し涌泉寺となっているので現在の地図で見ることはできない。また絵図の手前には民家が描かれているので、この地に松ヶ崎の集落があったことが分かる。宝ヶ池はこの絵図の上部にあたり、松ヶ崎にとっては北の高台となる。
もともと松ヶ崎村は北山通りが高野川にかかる山端橋あたりに、井堰を作り灌漑に使用していた。これを井出ヶ鼻井堰と呼ばれていた。高野川の東岸にある一乗寺村は、この井出ヶ鼻井堰の下流から取水していたため水が来ないこともあった。水を確保する争いは江戸時代各地で頻繁におこっていた。一乗寺村は井出ヶ鼻井堰のさらに上流より取水できる井堰を作る。井堰を施工した人の名を取り太田井堰と呼ばれている。この井堰には、詩仙堂丈山寺の石川丈山も関係している。もともと丈山は松ヶ崎狐坂あたりに隠遁の地を設けようとしていたようだ。これを知った松ヶ崎の村人が、その場所に墓石を運び込み墓地を作ってしまう。武家は捨てたものの元は幕府の高官、村人たちは何が目的か分からない得体の知れなさを丈山に感じたのかもしれない。ともかく丈山は松崎村に入ることが出来ず、一乗寺村に居を定めることとなる。 その因縁の中で一乗寺村と松ヶ崎村の間で水争いが起こる。村民が丈山に相談したのか、あるいは丈山が役人に働きかけたのかは分からないが、太田井堰が完成し一乗寺村の開拓が進む。
太田井堰については、ブログ「洛中洛外虫の眼探訪」に掲載されている 洛中洛外 きわめぐり 暗渠 太田川を歩く に、非常に詳しく記されているのでご参照下さい。
現在の太田川は、叡山電鉄 三宅八幡駅のあたりで高野川から取水し、修学院離宮の西側を南に下る。音羽川を越えて一乗寺村に入ってくる。服部山からの流れや一乗寺川を集め、暗渠となり最後は出町柳駅付近で鴨川に注ぎ込んでいる。
さて話しを宝ヶ池に戻す。太田井堰が出来たため、今度は松ヶ崎村の取水が減少してしまう。そのため、新たな用水の獲得の手段として宝ヶ池の灌漑用水化に着手することとなった。延享3年(1746)あるいは宝暦13年(1763)に湧水を堰きとめるだけの土手の高さ12尺程度の工事から始まったと考えられている。その後、現在の池の大きさになったのは、嘉永7年(1855)の工事とされている。当時は、溜池あるいは北浦溜池と呼ばれていたのが、宝ヶ池と名付けられるのは明治の末であった。その名称については、松ヶ崎村民にとって宝のような水であったこと、池の形が分銅型であったこと、あるいは宝暦年間(1751~1763)に造られたためという説がある。なお、池から流れる水は山があるため、岩倉川、高野川に流され、先の井出ヶ鼻井堰から松ヶ崎村に送られた。
昭和6年(1931)より京都市の所有となり、昭和17年(1942)に公園計画が策定される。戦後の昭和23年(1948)総合公園の建設計画が出され、進駐軍に接取された動物園の移転と野球場建設が予定される。しかし、建設中の野球場は、京都市公営の宝ヶ池競輪場に変えられ、昭和24年(1949)から昭和34年(1958)の間、競輪が開催されていた。公営ギャンブル廃止論争が高まり、現在の宝ヶ池こどもの楽園となる。
そして昭和41年(1966)国立京都国際会館が開館する。
この記事へのコメントはありません。