木嶋坐天照御魂神社
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ) 2009年1月12日訪問
1月11日の最後に訪問した伏見稲荷大社の八島ヶ池から、大橋家の前を通り過ぎ、東福寺駅から京阪電鉄に乗車し、祇園四条で下りる。ここから四条通を西に歩き、室町通のホテルに戻る。
一晩明けて1月12日の朝は、まさに銀世界だった。夜のうちにかなりの量の雪が降っていた。烏丸駅から市営地下鉄烏丸線に乗車し、烏丸御池で東西線に乗り換える。そして4つ先の終点・太秦天神前で下車し地上に出る。オフィス街である四条烏丸とは異なり、太秦天神前の積雪は、より多いように感じた。京福電気鉄道嵐山本線の軌道のある三条通を北西に向かって歩いて行く。丁度、嵐山本線が三条通から離れていくところに石造の鳥居と石灯籠1基が現れる。蚕養神社の額が架かるため、木嶋神社の鳥居であることが分かる。ここより北側に木嶋神社の参道が延びていく。まだ7時前で雪雲が空に残っていたため、あたりはかなり暗く、写真を撮れるような状況ではなかった。
住宅地の中の参道を200メートルほど進むと、こんもりした木々の中に木造の鳥居と式内社 木嶋座天照御魂神社の社寺号標石が現れる。ここより北側に逆三角形に広がる小さな森が現在の木嶋神社の境内となっている。山折哲雄監修・槇野修著の「京都の寺社505を歩く 下」(PHP新書 2007年刊)によると昔はもっと広域な森があり、その森の樹叢が島のように見えたことから木嶋と名付けられたとしている。また元糺の森とも言い、雄略天皇の御世に糺の森を下賀茂神社に移したことによる。糺の池は身を正しくする、誤りを直す場とされていた。
京都地名研究会が編集した「京都の地名 検証3 風土・歴史・文化をよむ」(勉誠出版 2010年刊)の蚕の社の項では、木嶋神社のある地が太秦森ヶ東町と呼ばれ、その西側の地名が森ヶ西町であることに着目している。このことより、木嶋の森はさらに西に広がる広隆寺まで連なり大きな島を成していたと考えている。
本殿東側に織物の始祖を祀る蚕養神社があることから、木嶋神社は蚕の社と呼ばれるが、正式名称である木嶋坐天照御魂神社は、木嶋に鎮座する天照御魂神の社という意味を持っている。祭神は、主神・天之御中主命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅茸不合命の4座。
天之御中主命は天地創造に関わった五柱の別天津神の一柱である。古事記では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であり、その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない独神という。高御産巣日神が征服や統治の神、神産巣日神が生産の神であるのに対して、天之御中主命は至高の神と位置付けられている。
大国魂神は大国主命と同神とされている。神道の観念の一つに、国または国土そのものを神格化したものを国魂があり、各地の国魂神を大国主に習合させたものと考えられている。つまり各地の神社で開拓の祖神として祀られている大国主は、元々はその地の国魂神であったとされている。
穂々出見命は天津日高日子穂穂手見命のことで、山幸彦と海幸彦の説話に登場し、一般には山幸彦の名で知られている。さらに神武天皇の祖父に当たる人物。
そして鵜茅茸不合命は、古事記では天津日高日子波限建鵜草葺不合命、日本書紀では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と表記されている。山幸彦すなわちと穂々出見命と海神の娘である豊玉姫の子とされている。すなわち神武天皇の父となる。
かつては天火明命すなわち天照御魂神(天照大神とは別の神)を祭神としていたとされている。またあるいは高御産巣日神ともいわれている。木嶋坐天照御魂神社の名称はその当時の名残であろう。天火明命は太陽の光や熱を神格化した神である。また、稲穂が熟して赤らむ意味としており、天皇に繋る他の神と同様、稲に関係のある名前でもあり、太陽神、農業神として信仰されている。このようなことから天穂日命の系譜、つまり天津神系の出雲神を源流としているとも考えられている。
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