長岡天満宮
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう) 2009年12月9日訪問
八条ヶ池中央の中堤を渡り、長岡天満宮の境内へと入っていく。この中堤の両側には樹齢100年を超えるキリシマツツジが植えられているが、生憎訪問したのが冬であったため丈の高い生垣としか見えなかった。樹齢百数十年ということは明治以前に植えたものかもしれない。
長岡天満宮の公式HPによると、御祭神は菅原道真公で御例祭は10月9日となっている。もともと菅原道真を祭神とする神社を天満宮あるいは天神社と呼び、大宰府天満宮、北野天満宮そして防府天満宮を日本三大天神としている。ちなみに東へ徒歩10分の阪急京都本線の駅名は長岡天神駅となっている。
先の長岡天満宮の公式HPでは下記のような由緒を記している。
当長岡天満宮の御鎮座地長岡は、菅原道真公が
御生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで
詩歌管弦を楽しまれた縁深いところであります。
明治3年(1870)12月付で、中小路弘人・中小路駒雄・宮仲間一統連署による由緒書上によれば、草創年期は不詳であるが、社地は菅原道真の采地であったと伝えている。
菅原道真は、参議菅原是善の三男として、承和12年(845)に生まれている。幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862)18歳で文章生となり、貞観9年(867)には文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に叙せられる。貞観12年(870)方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるところを1階のみ増して正六位上に叙せられている。これは3段階進むとそれでは五位に達してしまうための処置であった。翌年には玄蕃助、さらに少内記に遷任。貞観16年(874)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられる。元慶元年(877)には式部少輔に任ぜられ、家の職である文章博士を兼任する。
元慶3年(879)従五位上に叙せられる。仁和2年(886)讃岐守を拝任し、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向する。仁和4年(888)阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めている。そして寛平2年(890)任地の讃岐国より帰京する。
ここまでは家格に応じた職についていたが、宇多天皇の信任を受け、菅原道真は要職を歴任することとなる。そこには、外戚として権勢を振るってきた藤原氏とある程度の距離を置きつつ、親政を行う宇多天皇の考えが反映している。寛平3年(891)の関白藤原基経の死後、宇多天皇は摂関を置かず、源能有を首班として藤原時平と菅原道真、平季長等の近臣を重用し各種政治改革を行っていった。これが寛平の治と呼ばれている。遣唐使廃止を始めとし、造籍、私営田抑制、滝口武者の設置等に加え、国司に一国内の租税納入を請け負わせる国司請負や、位田等からの俸給給付等を民部省経由でなく各国で行う等、国司の権限を強化する改革を次々と行ったとされている。
寛平3年(891)道真は蔵人頭に補任、ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年には従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに次の年には参議式部大輔に補任、左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任している。
寛平6年(894)遣唐大使に任ぜられるが、自らの建議により遣唐使を停止する。寛平7年(895)従三位権中納言に叙任、春宮権大夫を兼任する一方で、長女衍子を宇多天皇の女御としている。翌年、民部卿を兼任。そして寛平9年(897)には三女寧子を宇多天皇の皇子斉世親王の妃としている。
寛平9年(897)宇多天皇は突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日に譲位を行っている。この譲位は仁和寺の開基となった宇多天皇が仏道に専念するためのものと考えられてきたが、現在ではもう少し政治的な判断によるものとして捉えられているようだ。すなわち次の皇位について藤原氏の要請が表面化する前に、陽成上皇の皇子ではなく自らの実子に譲位することを急いだのであろう。醍醐天皇の政権内に菅原道真を加えることにより、藤原時平の勢力拡大を抑えながら自らの影響力を行使する考えであったことは明らかである。
しかし昌泰4年(901)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件が発生する。いわゆる昌泰の変である。その背景には宇多上皇と醍醐天皇の政治主導権に対する争いや、中央集権制の強化に伴い藤原氏の権勢の低下を恐れた藤原時平の思惑なども見えてくる。いづれにしても醍醐天皇にとって宇多上皇の影響力を排除するためには、政権内の藤原時平と結び菅原道真を追い落とすことが一番有効な策であることは十分に理解している。それは宇多上皇が最も恐れてきた藤原氏の勢力拡大の機会を与えることになっても、時平と組んで道真を左遷する方を優先したのではないだろうか?そうであれば時平の讒言を天皇が聞き入れたのではなく、お互いの利益が一致した結果となる。この変の後、宇多上皇の政治への関与が無くなり、上皇は仏教への帰依を強めていく。そして醍醐天皇と時平による延喜の治が始まることとなる。
長岡天満宮の公式HPでは、道真は配流の途上にこの地を訪ね名残を惜しんだとしている。配流に際しては道真の一族であった中小路宗則、西小路祐仲そして東小路祐房の三人も大宰府にお供している。そして道真の没後、一寸八分の道真手造りの像と護持本尊を持って帰洛し、この乙訓郡開田村に聖廟を建て、道真を祀っている。これが長岡天満宮の始まりと考えられている。中世の長岡天満宮は、その地名より開田天満宮と呼ばれ、中小路宗則の末裔が神官を務めている。中小路氏は次第に土豪として勢力を拡大し、応仁の乱において細川氏の被官として中小路遠江守が登場する。
明応7年(1498)10月18日付で中小路宗数が開田天満宮の社殿を造営したことは、社殿の棟札から知られている。これには応仁の乱により社頭が退転したために建立したと記されている。次いで文禄4年(1595)の棟札も現存している。さらに慶長の大地震で崩壊した天満宮の造営に中小路宗俊らが尽力したことが、慶長3年(1598)棟札からうかがえる。この宗俊は開田城主中小路氏の後裔と考えられているが、その系図上のつながりは不明のようだ。
配所にお供した三家の中で西小路家と東小路家は既に断絶している。そのため道真手造りの像は中小路家に伝わり、元禄3年(1690)に本殿に合祀されている。なお本殿には古くから祀られてきた三尺五寸の神体があったことや、大宰府への途上にこの地に立ち寄り、腰掛けた石を見返り岩と謂ったことより、「見返り天神」の名が付いたことなども、この元禄の時に記録されている。
「長岡天満宮」 の地図
長岡天満宮 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 長岡天満宮 正面大鳥居 | 34.9237 | 135.6887 |
02 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池中堤 | 34.9237 | 135.6883 |
03 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池太鼓橋 | 34.9237 | 135.6881 |
04 | ▼ 長岡天満宮 拝殿 | 34.9228 | 135.6864 |
05 | ▼ 長岡天満宮 本殿 | 34.9228 | 135.6862 |
06 | ▼ 長岡天満宮 錦景園 | 34.9231 | 135.6867 |
07 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池 | 34.9231 | 135.6882 |
08 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池水上橋 | 34.9245 | 135.6879 |
09 | ▼ 長岡天満宮 八条ヶ池六角舎 | 34.9248 | 135.688 |
10 | ▼ 錦水亭本館 | 34.9227 | 135.6876 |
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