文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2013年 9月

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと) 2009年12月10日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 九条邸から移築した門の左側に建つ  京都府立鴨沂高等学校の校門は河原町の九条邸から新英学校及女紅場、京都高等女学校を経てこの地に移築されたものであることは、既に京都府立鴨沂高等学校の項で触れたとおりである。この門の左側に明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の碑が建つ。今回訪問したときは、明治天皇が府立第一高等女学校を行幸されたものと思い込んでいたが、よく調べてみると、かつてこの地にあった尋常中学校への行幸であったことが分かった。 明治天皇の行幸に就いては「続日本史籍協会叢書 明治天皇行幸年表」(東京大学出版会 1933年発行 1982… ►続きを読む

 

京都府立鴨沂高等学校

 

京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう) 2009年12月10日訪問 京都府立鴨沂高等学校 九条邸から移築した門  京都府立鴨沂高等学校のグランドに巡らしたコンクリート塀の一角に掘り込むように作られた法成寺址の碑が建つ。時の最高権力者であった藤原道長が病を得て出家するために建立した無量寿院の寺地のほぼ西南角に、この碑は建てられている。道長が最初の建物として九躰阿弥陀堂が建てたのは寛仁4年(1020)のことであった。そして治安2年(1022)7月14日、金堂の建立供養を行い、寺号を法成寺としている。その後も堂宇の新築と改築を行い、道長の僧房は摂関時代を代表する大寺院へと変貌してゆく。しかし最初から意図して造営された寺院でないため、造っては壊し、また造るの繰り返しを行ないな… ►続きを読む

 

法成寺址 その4

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その4 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑 京都市の説明板  法成寺の成り立ちを考える上で、興福寺から始まる藤原氏の氏寺について、法成寺址、その2、その3 と3回にわたって書いてきた。ここでは法成寺自体について記してみる。 法成寺の位置は、「扶桑略記」所引の無量寿院供養願文に「鳳城東郊、鴨河西畔」、「栄花物語」に「東の大門に立ちて、東の方をみれば、水の面まもなく、筏をさして、多くの榑材木をもて運ぶ」とある。「小右記」に「京極東辺」、「阿裟縛抄」に「近衛北、京極東」などとあることから、東は鴨川、西は東京極、南は近衛となる。すなわち現在では西は梨木町通を南に延長した線、南は荒神口通に並行でやや南よりということになる。恐らく京都市の遺蹟詳細地図索引の中の… ►続きを読む

 

法成寺址 その3

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その3 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑  既に興福寺、極楽寺そして法性寺から東福寺への変遷を見てきた。この項では法住寺と法興院そして平等院について書いてみる。 法性寺を造営した藤原忠平の長子実頼は法性寺の院家のような形で東北院を営み、弟の師輔は叡山横川に楞厳三昧院を建てている。藤氏長者第7代の実頼は、摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支える。しかし後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、精神の病を持つ天皇を輔弼する者として村上天皇時代には設けられなかった関白職に就任している。次いで円融天皇が即位すると摂… ►続きを読む

 

法成寺址 その2

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その2 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎  藤原氏の氏寺についてもう少し続ける。  藤原忠平によって開創された法性寺への参籠が増えると、近くに御所あるいは山荘が造営されている。藤氏長者第19代の藤原師通の寛治の頃(1087~94)になると白河法皇により鳥羽殿の造営が始まる。南殿の御堂証金剛院が供養されたのが康和3年(1101)3月29日のことであった。また白川の地に法勝寺、尊勝寺を造営し、承久2年(1114)11月29日には、付近に設けた御所の一つとなる泉殿の中にある蓮華蔵院の御堂で供養している。師通の子で藤氏長者第20代の藤原忠実が平等院を建立したのも、白河法皇が御所の中に御堂を建立したことと同じであった。 忠実の… ►続きを読む

 

法成寺址

 

法成寺址(ほうじょうじあと) 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎  京都府立医科大学付属図書館の敷地の隅に建てられた立命館学園発祥地の碑の前を過ぎ、広小路通を西に進むと寺町通に突き当たる。ここより先は京都御苑となり、広小路に面して清和院御門が設けられている。京の通りの名称が分からない時には、いつもヌクレオチドさんが管理されている「大路・小路」を参照させて頂いている。特に平安京の大路小路と現在の通りを比較できる点でWikipediaなどより重宝する。 かつての都の最も東を南北に走る通りは東京極大路であった。今まで寺町通がこれに一致していると思っていた。かつての東京極大路に近いのは、五条から清和院御門の間の寺町通、清和院御門から北側は梨木町通である。… ►続きを読む

 

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2013年9月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿