徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2013年

松尾大社 その4

 

松尾大社(まつおたいしゃ)その4 2009年12月20日訪問 松尾神社 二ノ鳥居の榊  阪急電鉄桂駅より嵐山線に乗車し2つ先の松尾駅を目指す。桂の町並みで触れたように、1つ先の上桂駅は旧桂村とその北側の松尾村が接する地域に当たる。そして葛野郡の松尾村と桂村は昭和6年(1931)4月1日に、京都市右京区に編入されている。さらに昭和51年(1976)10月1日の西京区誕生の際、分区されている。桂村が徳大寺村、下桂村、千代原村、上桂村、上野村の5村で構成されたように、明治22年(1889)の市町村制施行に伴い、上山田村、松室村、松尾谷村、下山田村、御陵村の5村が松尾村となっている。 松尾神… ►続きを読む

 

桂の町並み

 

桂の町並み(かつらのまちなみ) 2009年12月20日訪問 桂の町並み 桂大橋西詰の常夜灯  地蔵寺・下桂から、京都府道142号沓掛西大路五条線を阪急嵐山線の桂駅を目指して進む。 右京区から分区して西京区が発足したのは、昭和51年(1976)10月のことだった。これは昭和44年(1969)より計画され、昭和51年(1976)入居が始まった洛西ニュータウンの誕生により右京区西側の地域の人口が急増したためである。この時、桂川以西の地区を西京区としたので、旧葛野郡の桂村、川岡村、松尾村と旧乙訓郡の大枝村、大原野村が区域に含まれることとなった。 葛野郡は、明治12年(1879)4月10日、郡区町… ►続きを読む

 

徳大寺樋門の遺構

 

徳大寺樋門の遺構(とくだいじひもんのいこう) 2009年12月20日訪問 徳大寺樋門の遺構  桂離宮の東側、すなわち桂川沿いの京都府道123号水垂上桂線を北に向かって歩いている時に見かけた遺構について記す。 桂離宮の美しい笹垣を左手に見ながら進み表門へ左に曲る直前、周囲をメッシュ状のフェンスに囲まれた敷地の端に、説明板と共に煉瓦造の門の一部のようなものが見える。近づいてみると、かつてこの地にあった桂川の樋門が保存されていた。説明板の文字や写真もフェンス越しであるため読み辛かったので、とりあえず写真だけ撮影し表門へと向かった。後でこの樋門について調べてみると以下の様なことが分かった。… ►続きを読む

 

地蔵寺

 

浄土宗 久遠山 地蔵寺(じぞうじ) 2009年12月20日訪問 地蔵寺  春日神社・下桂から、再び京都府道142号沓掛西大路五条線に出て、阪急嵐山線の桂駅を目指して進む。桂川街道を越えてすこし歩くと、右手側に地蔵寺が現れる。門前に立てられた京都市の駒札によると、浄土宗の寺院で、京都六地蔵巡りの霊場であることが分かる。 地蔵寺 京都市の駒札  京都六地蔵巡りは、8月22日、23日の両日に都の入口にあたる街道にある六ヶ所の地蔵を巡拝ひ家内安全、無病息災を祈願する風習。各寺で授与された六種のお幡を住戸の入り口に吊すと、厄病退散、福徳招来するといわれいる。六ヶ所の地蔵尊とは以下のとおりであ… ►続きを読む

 

春日神社・下桂

 

春日神社・下桂(かすがじんじゃ) 2009年12月20日訪問 春日神社  御霊神社の境内を出て安楽寺跡の碑を見ながら、再び住宅街に入って行くと桂離宮の通用口が現れる。離宮の南西に広がる休耕地を眺めながら、京都府道142号沓掛西大路五条線に向かう途中に小さな神社がある。鳥居に架けられた額から春日神社であることが分かる。神社の北西側はコンクリート壁が立てられ、その先は桂離宮であった。すなわち離宮に隣接する神社である。社務所等もなく人気のない境内だが、綺麗に掃除されていたので誰かが常に手入れ行っているようだ。 春日神社 春日神社  「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社… ►続きを読む

 

安楽寺跡・下桂

 

浄土真宗 西本願寺派 安楽寺跡・下桂(あんらくじあと) 2009年12月20日訪問 安楽寺跡  下桂の御霊神社の南の鳥居を抜けると、住宅地の中に門扉で締め切られた空き地がある。ここに浄土真宗西本願寺派安楽寺跡の石碑が立つ。 安楽寺は京都市内にいくつかあるが、左京区鹿ケ谷の安楽寺が最も有名である。法然の承元の法難に関係する寺院であり現在も浄土宗の単立寺院である。 北区大森東町の安楽寺は、市内から自動車で1時間近くかかる大森加茂神社の近くに位置する。真言宗東寺派寺院で現在は無住状態のようだ。上京区三軒町の安楽寺は浄土宗鎮西派転法輪寺の末寺で、「京都坊目誌 上京 乾」(新修 京都叢書 第14巻… ►続きを読む

 

御霊神社・下桂

 

御霊神社・下桂(ごりょうじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御霊神社 南の鳥居前  ここからは桂離宮の周囲を一周する間に出会った社寺を記す。最初は桂離宮の西北にあたる桂久方町の御霊神社である。境内はそれほど広くはないが、大きな立派な樹木が印象的な神社である。境内へと続く参道が2本有り、東と南の二箇所に鳥居が設けられている。 祭神は橘逸勢。神社の御由緒によると創建は貞観18年(870)4月18日に下桂御霊神社に祭神として勧請されている。橘逸勢は空海、嵯峨天皇と共に三筆と称される人物である。 御霊神社 舞殿 御霊神社 拝殿と本殿  橘逸勢は延暦23年(804)に最澄や空海らと… ►続きを読む

 

桂離宮

 

桂離宮(かつらりきゅう) 2009年12月20日訪問 桂離宮 桂大橋から眺め  桂離宮は桂大橋の西詰め、即ち桂駅から駅前商店街となっている京都府道139号桂停車場線を東に進み、三叉路で京都府道142号沓掛西大路五条線に合流した後は、北東に歩くこと200メートルで桂離宮の南端が現れる。今回は拝観許可を得ていないので、離宮の周辺を歩くのみとする。2008年に京都御所、仙洞御所、修学院離宮を拝観した際にも、桂離宮に数日にわたりインターネットで申請したが、遂に許可を得ることはできなかった。 桂離宮 東側の笹垣 桂離宮 笹垣の詳細  桂離宮の建築や庭園については書かねばならないことが多… ►続きを読む

 

桂大橋

 

桂大橋(かつらおおはし) 2009年12月20日訪問 桂川左岸 日出前  烏丸駅から梅田行の阪急京都本線快速急行に乗車し、桂駅に到着したのは6時30分。本日は桂川の右岸の松尾から嵯峨野にかけて巡る。まだ日の出前のため、桂駅から徒歩で桂川に向かい桂大橋上で日の出を迎える予定である。 桂川は左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する一級河川で、その流域毎に名称を変える。先ずは右京区京北地区の流域では上桂川、そして南丹市園部地区に入ると桂川になる。南丹市八木地区から亀岡市は大堰川、そして亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川と呼ぶこともあるが、嵐山からは再び桂川に戻る。… ►続きを読む

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと) 2009年12月10日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 九条邸から移築した門の左側に建つ  京都府立鴨沂高等学校の校門は河原町の九条邸から新英学校及女紅場、京都高等女学校を経てこの地に移築されたものであることは、既に京都府立鴨沂高等学校の項で触れたとおりである。この門の左側に明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の碑が建つ。今回訪問したときは、明治天皇が府立第一高等女学校を行幸されたものと思い込んでいたが、よく調べてみると、かつてこの地にあった尋常中学校への行幸であったことが分かった。… ►続きを読む

 

京都府立鴨沂高等学校

 

京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう) 2009年12月10日訪問 京都府立鴨沂高等学校 九条邸から移築した門  京都府立鴨沂高等学校のグランドに巡らしたコンクリート塀の一角に掘り込むように作られた法成寺址の碑が建つ。時の最高権力者であった藤原道長が病を得て出家するために建立した無量寿院の寺地のほぼ西南角に、この碑は建てられている。道長が最初の建物として九躰阿弥陀堂が建てたのは寛仁4年(1020)のことであった。そして治安2年(1022)7月14日、金堂の建立供養を行い、寺号を法成寺としている。その後も堂宇の新築と改築を行い、道長の僧房は摂関時代を代表する大寺院へ… ►続きを読む

 

法成寺址 その4

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その4 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑 京都市の説明板  法成寺の成り立ちを考える上で、興福寺から始まる藤原氏の氏寺について、法成寺址、その2、その3 と3回にわたって書いてきた。ここでは法成寺自体について記してみる。 法成寺の位置は、「扶桑略記」所引の無量寿院供養願文に「鳳城東郊、鴨河西畔」、「栄花物語」に「東の大門に立ちて、東の方をみれば、水の面まもなく、筏をさして、多くの榑材木をもて運ぶ」とある。「小右記」に「京極東辺」、「阿裟縛抄」に「近衛北、京極東」などとあることから、東は鴨川、西は東京極、南は近衛となる。すなわち現在では西は梨木… ►続きを読む

 

法成寺址 その3

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その3 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑  既に興福寺、極楽寺そして法性寺から東福寺への変遷を見てきた。この項では法住寺と法興院そして平等院について書いてみる。 法性寺を造営した藤原忠平の長子実頼は法性寺の院家のような形で東北院を営み、弟の師輔は叡山横川に楞厳三昧院を建てている。藤氏長者第7代の実頼は、摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支える。しかし後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、精神の病を持… ►続きを読む

 

法成寺址 その2

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その2 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎  藤原氏の氏寺についてもう少し続ける。  藤原忠平によって開創された法性寺への参籠が増えると、近くに御所あるいは山荘が造営されている。藤氏長者第19代の藤原師通の寛治の頃(1087~94)になると白河法皇により鳥羽殿の造営が始まる。南殿の御堂証金剛院が供養されたのが康和3年(1101)3月29日のことであった。また白川の地に法勝寺、尊勝寺を造営し、承久2年(1114)11月29日には、付近に設けた御所の一つとなる泉殿の中にある蓮華蔵院の御堂で供養している。師通の子で藤氏長… ►続きを読む

 

法成寺址

 

法成寺址(ほうじょうじあと) 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎  京都府立医科大学付属図書館の敷地の隅に建てられた立命館学園発祥地の碑の前を過ぎ、広小路通を西に進むと寺町通に突き当たる。ここより先は京都御苑となり、広小路に面して清和院御門が設けられている。京の通りの名称が分からない時には、いつもヌクレオチドさんが管理されている「大路・小路」を参照させて頂いている。特に平安京の大路小路と現在の通りを比較できる点でWikipediaなどより重宝する。 かつての都の最も東を南北に走る通りは東京極大路であった。今まで寺町通がこれに一致していると思っ… ►続きを読む

 

立命館学園発祥地

 

立命館学園発祥地(りつめいかんがくえんはっしょうのち) 2009年12月10日訪問 立命館学園発祥地  京都府立医科大学付属病院内にある療病院碑を後にして河原町通を渡ると、広小路通が始まる。この通りの北側に赤御影石を使用した立命館学園発祥地の碑が見える。廬山寺から南側の敷地には現在は、平成4年(1992)竣工の京都府立医科大学附属図書館と平成5年(1993)竣工の看護学学舎が建つが、その東南角を借りるように記念碑が造られている。碑の建立年が図書館と一致することから、この地が整備された時に建碑されたのであろう。 東三本木町に建つ立命館草創の地でも既に記したように、この碑の地には、かつて清輝… ►続きを読む

 

療病院碑

 

療病院碑(りょうびょういんひ) 2009年12月10日訪問 療病院碑  鴨川の西岸にあるみそそぎ川の取水口と思われる場所を確認した後、鴨川公園から京都府立医科大学付属病院の敷地を横断して河原町通に出る。その途中の旧附属図書館棟の前に療病院碑が建つ。 療病院については石田孝喜氏の「続・京都史跡辞典」(新人物往来社 2006年刊)に詳細な記述があるので、これを参考にまとめてみる。幕末維新時には200年間に及んだ和蘭医学が未だ主流であった。佐賀藩出身、佐倉順天堂で佐藤泰然、そして長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学んだ相良知安は、文部省医務局長など歴任し、明治初期の医療行政におい… ►続きを読む

 

みそそぎ川

 

みそそぎ川(みそそぎがわ) 2009年12月10日訪問 みそそぎ川 取水口と京都府立医科大学付属病院の位置関係  この日は梁川星巌邸址の碑を見つけることなく、再び川端通丸太町の交差点から丸太町橋を渡り西岸に戻る。ここより鴨川沿いの遊歩道に下りる。鴨川の西岸をみそそぎ川の取水口まで歩く。 古くより鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られてきた。これは大都市を流れる河川としては勾配が急であるためだ。北山の深泥池と九条の東寺の間には東寺の五重塔分の高低差があると言われる。単純に一様勾配とすると、凡そ8.7kmの間に55m下ることとなる。河川勾配で表すと1/158(158m下流で1m低くなる勾配)… ►続きを読む

 

是枝柳右衛門の寓居

 

是枝柳右衛門の寓居(これえだりゅうえもんのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 是枝柳右衛門の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その4では臥龍窟の凡その場所を推定してみた。この臥龍窟には多くの有志が訪れたことが伝えられている。そして寺田屋事件の発生した夜、ここに薩摩の是枝柳右衛門が居たことから京での寓居とされる。 文久2年(1862)4月23日の夜、すなわち田中河内介が計画した義挙を実行するはずだった夜、伏見の寺田屋で薩摩藩の上意討ちが行われ、京都挙兵は行われなかった。この計画は既に書いてきたように、京で兵を挙げ関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸を襲撃、さらには青蓮… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その4

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その4 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 京都都市計畫圖より  田中河内介の寓居 その3では、田中河内介・左馬介父子、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計そして青水頼母の最期を記した。最後に川端通丸太町上ル東側にあった臥龍窟と維新後の田中河内介の扱われ方について書いてみる。 豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)によると田中河内介は度々転居していた。嘉永3年(1850)頃と考えられている書簡には4月朔日を以って寺町五条上ルに転居したことが記されている。高瀬川に臨み、比叡、東山を望み、二階を臨川楼と号したようだ… ►続きを読む

 
 

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