アーカイブ:2014年 4月 13日
黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)その2 2009年12月20日訪問
大悲閣千光寺 了以像
大悲閣千光寺では、その位置と角倉了以よる中興までの歴史について記した。ここでは了以が大悲閣千光寺を創建することとなった河川開削事業について書いてみる。
大悲閣千光寺 大悲閣
大悲閣千光寺 大悲閣内部
角倉家の本姓は吉田氏で、近江国犬上郡吉田村出身とされている。初代となる吉田徳春が室町時代中期に上洛し、足利義満、義持に仕え、晩年に医術を習得している。その子の宗臨の代には足利義政に医術で仕えるようになる。そして三代目の宗忠がその後の角倉家の財を築き、土倉を営むようになる… ►続きを読む
黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ) 2009年12月20日訪問
大悲閣千光寺 大河内山荘からの眺め
渡月橋より大堰川右岸の大悲閣道を凡そ1キロメートル上流に歩くと、大悲閣千光寺へと続く石段が現れる。この石段の始まる左手には、松尾芭蕉の「花の山 二町のぼれば 大悲閣」句碑と称するものがある。確かに芭蕉は弟子の去来が買い求めた落柿舎に元禄4年(1691)4月18日から17日間滞在し、嵯峨の山川名跡を訪れ「嵯峨日記」を残している。しかし前記の句は「嵯峨日記」にも掲載されていない、出典不詳の句とされている。
大悲閣千光寺 参道の入口
大悲閣千光寺 参道の入口に建つ芭蕉… ►続きを読む
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