徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

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妙満寺 その2

 

妙満寺(みょうまんじ)その2 2010年9月18日訪問 妙満寺 その2 本坊 妙満寺では、開祖である日什上人の生涯と妙満寺の開創から昭和の遷堂までの歴史を見てきた。この項では現在の岩倉幡枝の境内の様子を記していく。 妙満寺 その2 境内図 妙満寺 その2 仏舎利大塔 妙満寺 その2 仏足石 天正11年(1583)豊臣秀吉の命による寺町二条下ルへの移転後、約400年間妙満寺は寺町二条で数度の焼亡と復興を繰り返してきた。明治初年の上知令によって多くの塔頭を失い寺地も半減、さらに昭和20年(1945)の強制疎開によって再び塔頭4院の寺地と建物を失うという痛手を蒙った。戦後、寺… ►続きを読む

 

妙満寺

 

妙満寺(みょうまんじ) 2010年9月18日訪問 妙満寺 境内から比叡山を望む 叡山電鉄鞍馬線の木野駅で下車して妙満寺に向かう。修学院離宮や円通寺を訪問した際にも立ち寄る機会があったものの、なぜか予定には入れてこなかった。今回は鞍馬から岩倉を廻る中でこの寺院の訪問を決めた。もし京の訪問から外したら、別の日にここだけを訪れるような予定を組まなければならなくなると思いがしたためである。 正式には顕本法華宗総本山 妙塔山 妙満寺という名称になる。公式HPの宗名由来を見ると、明治9年(1876)に「日蓮宗妙満寺派」を公称するとあるので、もともとは日蓮宗であったことが分かる。明治31年(1898)… ►続きを読む

 

補陀洛寺

 

天台宗延暦寺派 如意山 補陀洛寺(ふだらくじ) 2010年9月18日訪問 補陀洛寺 小野小町供養塔境内北隅の最も高い場所に位置する 叡山電鉄鞍馬線の市原駅を下車し鞍馬街道(京都府道40号下鴨静原大原線)を南に歩くと、観音道是より三町と惺窩先生幽栖址従是西二丁の2つの道標が現れる。ここよりさらに200mほど進むと東側の高台の上に補陀洛寺がある。 補陀洛寺 鞍馬街道沿いの寺号標 こまち寺とある 補陀洛寺 鞍馬街道から石段で本堂へ登っていく 補陀洛寺は天台宗延暦寺派、山号は如意山である。創建、変遷の詳細は不明であるが、「近畿歴覧記」(新修 京都叢書 第三巻「近畿歴覧記 雍州府志」(… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その11

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その11 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院 魔王殿 鞍馬寺 その10では、鞍馬弘教と魔王尊について書いてきた。ここからは鞍馬寺最後の項として奥の院の景色を見ていきたい。 先ず与謝野晶子の荻窪での書斎・冬柏亭の裏側に息つぎの水と呼ばれる湧き水がある。僧正谷での武芸修行のため、由岐神社の上にあった東光坊から毎夜抜け出した牛若丸が途中で喉を潤したところとされている。この近くの屏風坂には革堂地蔵尊がある。一枚岩の屏風を立てたような急坂があったことから名付けられている。鞍馬山の頂上付近には義経公背比石と呼ばれる1.2m程度の石英閃光緑岩が立てられて… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その10

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その10 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 大杉権現社 鞍馬寺 その9では、大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と天台宗からの分離独立の背景について書いてきた。この項では戦後すぐに開宗した鞍馬弘教の教えについて見ていく。 鞍馬弘教の中でも特に初期の教えについて学ぶには、色々探してみたが信楽香雲貫主が記した「鞍馬山歳時記」(鞍馬弘教総本山 1988年刊)を参照するのがよさそうである。これは鞍馬寺が1988年に「くらま山叢書 4」として発刊したものでる。一見、その書名からすると鞍馬寺の年中行事を紹介する随筆集のようにも見える。確かに季節毎の行事を紹介… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その9

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その9 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 金堂 鞍馬寺 その8では、日本独自の天狗の進化を中心に義経伝説の発生まで見てきた。この項では大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と戦後すぐに開宗した鞍馬弘教について書いみる。 鞍馬寺 山門 鞍馬弘教の説明に入る前に、信楽香雲貫主の生い立ちから整備事業を見ていく。前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜に従うと、香雲貫主は明治28年(1895)10月20日、岐阜県郡上郡八幡町の服部真静とかつの三男・誠三として生まれている。同40年(1907)地元の八幡尋常小学校… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その8

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その8 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 鞍馬寺駅前の天狗像 鞍馬寺 その7では、中国と日本の天狗のイメージ形成について調べ、「今昔物語」の巻20第2話の「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」まで見てきた。ここからはさらに進めて鞍馬山の天狗伝説と牛若丸について書いてみる。 「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」では叡山の高僧にあっけなく調伏されてしまう中国天狗が出てきた。怪異に対する仏法の優位性を示す構成となっているので、やや気弱でコミカルな天狗となっている。しかし同じ「今昔物語」でも巻20の第7話「染殿后為天狗被嬈乱語 第七」には、おどろおどろしい天狗… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その7

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その7 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院 鞍馬寺 その6では、鞍馬寺の教義の推移と修験者について、そして僧正が谷の由来となった権僧正壹演まで見てきた。ここではさらに一歩進めて中国と日本の天狗の違いについて書いてみる。 鞍馬山の天狗はどこから来たのであろうか?元々天狗は中国から日本に入ってきたものであるが、その姿やイメージは現在の日本の天狗とはかなり異なっていた。司馬遷の「史記」天官書87に以下のような記述が見られる。?最初の「天狗,狀如大奔星,有聲」は、「天狗(てんこう)、その姿は大流星で音がする」という意味である。つまり大気圏に突入した… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その6

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その6 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院の入口 鞍馬寺 その5では、鞍馬寺と与謝野鉄幹・晶子夫妻の関係から2人が創設に関わった文化学院の挫折、そして2人の歌碑と冬柏亭を見てきた。ここからは鞍馬寺の教義の推移、鞍馬山と修験者について書いてみたい。鞍馬寺の成り立ちを知る上で、第一に挙げねばならない書物は「鞍馬蓋寺縁起」であろう。これは室町時代に纏められたもので、大日本仏教全集に収録されている。「鞍馬蓋寺縁起」はその名称通り鞍馬寺開創の歴史を綴ったものである。上一と二段に鑑禎上人が鬼女と毘沙門天王に出会った説話が残されているが、この説話は「鞍馬… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その5

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その5 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 冬柏亭 由岐神社の拝殿を潜り、鬼一法眼社、魔王の滝、吉鞍稲荷社、そして放生池を過ぎると再び普明院に戻る。ここから再びケーブルを使い本殿金堂を目指す。そこから今度は奥の院参道に入って行く。 鞍馬寺 奥の院入口 本殿左側の参道を進むと霊宝殿の手前に與謝野晶子・寛歌碑と冬柏亭がある。先代管長の信楽香雲が與謝野晶子・寛に師事したことからこの鞍馬寺に造られた。香雲管長の前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜によれば明治28年(1895)に岐阜県郡上郡八幡町の服部真静… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その4

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その4 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 金剛床と本殿金堂 寝殿と転法輪堂の間の石段を登っていくと本殿金堂が建つ地盤面に到達する。仁王門前からここまでの間でこれだけ広い平坦な土地はなかった。ここに鞍馬寺の主要な堂宇が建設されるのは必然の事であろう。本殿金堂は文化11年(1814)3月29日に焼失し、明治5年(1872)秋に再建されている。しかし昭和20年(1945)にまたも全焼したため、昭和46年(1971)にRC造で再建したものである。この年の6月7日に落慶供養が執り行われている。七間七間で一重入母屋造。内部は外陣、内陣、内内陣に分かれ、内内陣… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その3

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その3 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 多宝塔 鞍馬寺では鞍馬の地名について、そして鞍馬寺 その2では鞍馬寺の開創から現在の鞍馬弘教総本山までの歴史を見てきた。ここでは境内について書いていくこととする。仁王門へと続く石段の左手には歓喜院修養道場がある。既に廃絶した山内の十院九坊を結集するために昭和39年(1964)に建立されている。聖観音像を奉安し写経・法話ならびに書道・華道・茶道・水 墨画によって心を磨く修養道場となっている。石段の上に建てられた仁王門を潜るとすぐに普明殿と呼ばれる堂宇に参拝者のためのケーブル駅が設けられている。この鞍馬山ケー… ►続きを読む

 

鞍馬寺 その2

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その2 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 仁王門 叡山電鉄の鞍馬駅から大天狗を左手に眺めながら進んでいくとすぐに鞍馬街道に合流する。道なりに歩を進めると鞍馬寺の石段とその上の仁王門が見えてくる。石段の右手には赤褐色の鞍馬石で造られた寺号標が建つ。仁王門は柱間が正面三つで中央の一間が戸口になっている三間一戸の丹塗の楼門様式。元からあった古い楼門が明治24年(1891)11月に焼失している。今の仁王門は20年後の明治44年(1911)4月に復興竣工したものとされている。この仁王門の脇には勅使門があったことが、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブ… ►続きを読む

 

鞍馬寺

 

鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら) 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 寺号標と仁王門 貴船での最後の訪問地・貴船神社結社の参詣を終え、京都府道361号上黒田貴船線を南に戻る。再び叡山電鉄貴船口駅より電車に乗り一つ先の終着駅・鞍馬駅で降りる。 駅の改札口を抜けると大天狗のモニュメントが観光客を迎える。鞍馬の自治会が平安建都1200年を記念して1994年に製作、2002年より鞍馬駅前に設置されている。鼻の長さ2.3mの大天狗の面は発泡スチロール製であったことから劣化が進み、ついに2017年1月17日の朝、積雪の重み耐えられず鼻から先が折れてしまった。この事故とともに補修されるまでの間… ►続きを読む

 

大聖寺

 

臨済宗単立 岳松山 大聖寺(だいしょうじ) 2010年1月17日訪問 大聖寺  今出川室町の東北角に建つ足利将軍室町第址の石碑を確認した後、今出川烏丸の交差点を北に上ると左側に大聖寺の山門が現れる。もうすでに17時を回ってしまっていたので門扉を閉める準備を行っていた。大聖寺は一般に公開されていない寺院であるので取り合えず境内の様子のみ見せていただくことにした。 大聖寺は尼五山第1位の景愛寺の法統を継ぐ臨済宗単立寺院。山号は岳松山、御寺御所とも称する尼門跡寺院。ここからは尼五山の成立時期とともに大聖寺や宝鏡寺の基となった景愛寺について少し詳しく見ていくこととする。 大聖寺  尼五山と… ►続きを読む

 

報恩寺

 

浄土宗知恩院派 堯天山 報恩寺(ほうおんじ)2010年1月17日訪問 報恩寺 境内  泉妙院の山門越しに尾形光琳とその一族の墓を拝観した後、寺之内通を再び西に戻り小川通を南に下る。凡そ40メートルくらい歩くと、通りの西側に報恩寺の山門と石橋が現れる。新しく建てられた寺号標には“浄土宗鳴虎 報恩寺”と記されている。寺之内通より北側の小川通は小川に沿って南下するが、百々橋の東橋詰めで通りが20メートル東に付け替えられている。そのため小川通から報恩寺の石橋までの間に20メートル程度の参道が生じている。その両側には民家の妻面が見えるため、少し不思議な空間になっている。山門手前の石橋は、かつて流れ… ►続きを読む

 

泉妙院 その2

 

泉妙院(せんみょういん)その2 2010年1月17日訪問 泉妙院 緒方家墓所 2016年3月5日撮影右側宝塔:光琳・乾山両人の供養塔  2019年最初のエントリーは、正月に相応しい国宝「紅白梅図屏風」の作者・尾形光琳になりました。  泉妙院では、尾形家の来歴から光琳が画家への道を歩み始める契機について、さらに門前に建立された 尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑を手掛かりに、建立者の三越が明治後期から行ってきた尾形光琳に対する顕彰活動について見て来た。この項では白崎秀雄の「尾形光琳取材ノート」を元にして、光琳が生存していた頃の三越との関係を調べてみる。 雑誌「日本美術工芸」に「尾形光琳… ►続きを読む

 

泉妙院

 

泉妙院(せんみょういん)2010年1月17日訪問 泉妙院  妙顯寺の山門を出て、寺之内通を東に20メートル進むと泉妙院の山門が現れる。泉妙院は妙顯寺の多くの塔頭の中の一つである。一般に公開されていないため常に山門は閉ざされており、境内の様子を外から伺うことはできない。山門の右手には尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑が建つ。この石碑は昭和51年(1976)に三越が建立したものである。勿論、東京日本橋の百貨店の三越のことである。 尾形光琳は万治元年(1658)京都の呉服商・雁金屋の当主・尾形宗謙の次男として生まれている。そして光琳の五歳下の弟が陶芸家の尾形乾山である。この2人の芸術家を生… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その11

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その11 2018年8月12日訪問 南千住 回向院  南千住 回向院 その10では、坂下門外の変及び東禅寺事件に関わった人々について見てきた。この項ではそれ以外の回向院に葬られた人々について書いていく。 南千住 回向院 相馬大作・関良助供養碑 B- 4 南千住 回向院 相馬大作・関良助供養碑 B- 4  坂下門外の変及び東禅寺事件に関わった人々を除くと、残りは「其の他」ということになる。幕末の国事犯以外にも数名、この“回向院史跡エリア”に祀られているようだ。墓碑銘の後ろの括弧内の記号は「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編… ►続きを読む

 

南千住 回向院 その10

 

南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その10 2018年8月12日訪問 南千住 回向院 高畑房次郎之遺墳 A- 5  南千住 回向院 その9では、桜田門外の変に関わった人々の埋葬がどのように行われたかと文久2年(1862)11月の改葬について見てきた。この項では安政の大獄、桜田門外の変以外の事件に連座し回向院に葬られた人々と明治以降の回向院について書いていく。 既に安政の大獄と桜田門外の変に連座した人々については見てきた。これ以外には、先ず坂下門外の変に関係した人々が埋葬されている。回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net : リンク先が無くなりました )の… ►続きを読む

 
 

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