アーカイブ:2018年 1月 08日
百々橋(どどばし)その4 2010年1月17日訪問
小川
百々橋 その3では、応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に、文正の政変直前の対立構造を書いてきた。ここでは政変前後の権力関係の変化から御霊合戦そして応仁の乱の初戦までを書いていく。 文正元年(1466)夏の時点で、第8代将軍・足利義政の幕府内に大きく分けて3つの勢力が存在していた。一つは将軍・義政の幕府権力伸長を目指す側近集団で、伊勢貞親と季瓊真蘂が中核となり、赤松政則と斯波義敏を取り込んでいた。この集団は将軍・義政を中心とした政治体制を目指したため、他の2派の勢力を削減するための方策をとってきた。すなわち守護大名… ►続きを読む
百々橋(どどばし)その3 2010年1月17日訪問
小川
百々橋 その2の項では、応仁以前の京の景観を描いたとされる中昔京師地図を基に、小川沿いの社寺及び東西両軍の大名邸宅の位置と室町幕府第6代将軍・足利義教の恐怖政治が齎したものについていた。この項では応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に文正の政変までの緊迫の状況を書いてみる。 享徳3年(1454)4月、畠山持富の子・弥三郎(政久)を擁立した神保親子は、義就派の遊佐氏の襲撃を受けて戦死、そして椎名、土肥等の神保の与党も京都から逃げ出している。このように当初優勢だったのは義就派であった。しかし畠山氏の弱体化を狙う細川勝元… ►続きを読む
百々橋(どどばし)その2 2010年1月17日訪問
小川 小川町通寺之内の西北角に残された百々橋の礎石
水火天満宮の南に広がる扇町児童公園から小川通に入り南に下る。小川通が寺之内通と交わる北西角に細長い児童公園が現れる。小川の項でも触れたように、かつて小川通“おがわとおり”に沿って小川“こかわ”が流れていた。この寺之内通と交わる場所は百々の辻と呼ばれ、宝鏡寺を含む寺之内通の南北町は今も百々町という町名になっている。応仁以前の景観を描いたとされる中昔京師地図にも「百百ノ辻寺ノ内安居院」と記され、小川にも橋が描かれている。百百ノ辻に掛かる橋から百々橋と呼ばれている。百々の名は古より使われて… ►続きを読む
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