徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:201001

冷泉家

 

冷泉家(れいぜいけ) 2010年1月17日訪問 冷泉家  同志社大学今出川キャンパスの西門前に建つ薩摩藩邸跡の石碑は、この地に薩摩藩二本松邸があったことを示すものである。薩摩藩邸跡(二本松)からその4までの4回にわたり、薩摩藩の京屋敷について書いてきた。特にこの二本松藩邸は倒幕に舵を切っていく薩摩藩の政治活動の中心地であり、また軍事力の駐屯地でもあった。文久3年(1863)の藩邸完成後、払い下げになる明治5年(1872)までの10年に満たない短い期間だけでも、甲子戦争、薩長同盟そして鳥羽伏見の戦いという歴史の転換点の舞台となったことは特筆すべき点である。次回の訪問の際には、慶応4年(18… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松) その4

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その4 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 京都市の駒札  薩摩藩邸跡(二本松) その3では本題である薩摩藩二本松藩邸が、この地に作られるまでの経緯を見てきた。この項では小松、西郷、大久保の京都での寓居跡と藩邸の位置関係を確認しておく。 小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 2018年3月18日撮影  文久3年(1863)9月、薩摩藩は小松帯刀の宿舎として鹿苑院の借受けを相国寺に申し出ている。前述の「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」によれば、9月11日に借用願を出したようだ。小松は久光の3度目の上京に随行し、文久3年10月には京に入って… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松) その3

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その3 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡  薩摩藩邸跡(二本松) その2では薩摩藩の岡崎藩邸と小松原調練場について見て来た。軍事力を京都の地に置くためには、藩兵が寄宿する場所の他に軍事訓練を行える場所の確保が重要となる。そして武器の主流が刀や槍から大砲と小銃へ移った事により、屋敷内の剣術道場ではなく広大な敷地を持つ調練場が要求されるようになった。もし西洋式の軍事訓練場の準備ができなかったならば、甲子戦争においても開戦に踏み切ることができなかったのではないかとも思う。それ位、当時の薩摩藩にとっても2つの調練場は重要な施設であったと考える。 恐… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松) その2

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その2 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡  薩摩藩邸跡(二本松) では幕末期の京屋敷について見て来た。江戸時代初期より京には諸藩の武家屋敷、すなわち京屋敷が設けられてきた。禁中並公家諸法度により、「一 武家之官位者、可爲公家當官之外事」と武家と公家の官位は分けられ、武家には将軍を通じて官位が与えられるように定められた。そのため官位叙任に関し武家は公家と直接的な関係を結ぶことがないように制限されてきた。そしてこのことが武家と公家の私的な交際まで拡大適用され、特に譜代大名は参勤交代の際にも幕府の疑念を避けるために京に入ることがなかったとされてい… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松)

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 同志社大学今出川キャンパス西門前  烏丸通の西側にある大聖寺は一般公開を行っていないため、その境内を拝見させていただいた。烏丸通沿いに築かれた築地塀に背を向けるようにして、花乃御所の石碑が建てられている。平成7年(1995)に大聖寺門主の花山院慈薫が建立されている。今、大聖寺があるこの地には、かつて足利義満が築いた室町殿が存在したことを示す石碑である。さらには大聖寺の開基・無相定円が義満の室町殿の中にあった岡松殿で過ごし、亡くなられた後に大聖寺に改められたことを記念するものでもある。この場所の地名は上京区御… ►続きを読む

 

大聖寺

 

臨済宗単立 岳松山 大聖寺(だいしょうじ) 2010年1月17日訪問 大聖寺  今出川室町の東北角に建つ足利将軍室町第址の石碑を確認した後、今出川烏丸の交差点を北に上ると左側に大聖寺の山門が現れる。もうすでに17時を回ってしまっていたので門扉を閉める準備を行っていた。大聖寺は一般に公開されていない寺院であるので取り合えず境内の様子のみ見せていただくことにした。 大聖寺は尼五山第1位の景愛寺の法統を継ぐ臨済宗単立寺院。山号は岳松山、御寺御所とも称する尼門跡寺院。ここからは尼五山の成立時期とともに大聖寺や宝鏡寺の基となった景愛寺について少し詳しく見ていくこととする。 大聖寺  尼五山と… ►続きを読む

 

足利将軍室町第址 その2

 

足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちだいあと)その2 2010年1月17日訪問 足利将軍室町第址  白峯神宮 その9の南門を潜り今出川通に出る。そのまま今出川通の北側の歩道を東に進むと、室町通の東北角に足利将軍室町第址の石碑が現れる。大正4年(1915)に京都市教育会が建立した碑で、「従是東北 足利将軍室町第址」と記されている。ここが室町幕府の花の御所の西南の角に当たることを示している。2008年5月13日以来2度目の訪問となる。前回は足利幕府の将軍の邸宅の変遷について書いたので、今回は第3代将軍・足利義満が築いた室町殿について書いていく。 大聖寺 室町殿の一部 奥に見える建… ►続きを読む

 

白峯神宮 その9

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その9 2010年1月17日訪問 白峯神宮  白峯神宮 その8では、幕末維新期の白峯神宮創建に尽力した中瑞雲斎の前半生について書いてきた。この項では神宮創建後に生じた瑞雲斎に関する事件について調べてみる。 明治2年(1869)正月5日、新政府の参与・横井小楠が京都寺町通丸太町下ルで十津川郷士の襲撃を受け暗殺されるという大事件が発生する。小楠が暗殺された理由とは、日本のキリスト教化を推進しているとされている。歴史的にも有名な事件にも拘らずその実相を明らかにした資料は実は多くない。開明的な思想を持つ横井は因習に固執した尊皇攘夷激派の生き残りに殺害された、これがこの… ►続きを読む

 

白峯神宮 その8

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その8 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その7では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について「孝明天皇紀」(平安神宮 1981年刊)慶応2年(1866)11月16日の条を中心に見て来た。この項では白峯神宮創建を目指して奔走した中瑞雲斎の前半生について調べてみる。 上御霊神社 御祭神は崇道天皇(早良親王)、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(六座の荒魂)、吉備大臣(吉備真備)2018年3月18日撮影  しかしこの敷地が「狭小」である上「汚穢地之旨有風聞」という… ►続きを読む

 

白峯神宮 その7

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その7 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その6では、崇徳天皇の鎮魂のために造営された崇徳院廟の所在地の特定について見て来た。この項では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について調べてみる。 上御霊神社 南門  崇徳上皇の怨霊鎮魂に一番熱心であったのは、保元の乱の当事者である後白河法皇だったことは当然の結果とも言える。法皇はかつて戦場の地となった白河北殿の地に崇徳院廟を造営し、元暦元年(1184)4月15日に遷宮を行っている。しかし建久3年(1192)11月16日に後白河法皇が崩御すると、朝廷の崇徳院怨霊に対する恐れ… ►続きを読む

 

白峯神宮 その6

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その6 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿から本殿を望む  白峯神宮 その5では、崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について見て来た。この項では、応仁の乱で失われた崇徳院廟がどこに所在していたかについて考えてみる。 元暦元年(1184)4月15日に遷宮、鴨川の氾濫によって嘉禎3年(1237)に遷座した崇徳院廟はどこに所在していたか?崇徳院廟が創建された確かな場所は未だ特定出来ていないようだ。碓井小三郎は「京都坊目誌 上京 坤」(「新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で崇徳院粟田宮ノ址について以下の… ►続きを読む

 

白峯神宮 その5

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その5 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿  白峯神宮 その4では、鳥羽法皇崩御後の崇徳天皇と保元の乱の戦場となった白河北殿と院政政治の中心となった白河街区について見て来た。この項では崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について調べてみる。 保元元年(1156)7月23日、崇徳上皇は讃岐国へ移される。乱の終結直後、後白河天皇は石清水八幡宮に勝利の報告を宣命で行っている。藤原頼長がいかに猛悪であり、流れ矢に当たって死んだのは神罰であると述べている。そして上皇の配流から乱に加わった者への処罰は法に則った処分であると八幡大菩薩に祈誓している。… ►続きを読む

 

白峯神宮 その4

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その4 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その3では、では白峯神宮の最初に祭神となった崇徳天皇について、鳥羽法皇との関係を中心に近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位まで見てきた。この項では鳥羽法皇の崩御から保元の乱までの経緯、そして崇徳上皇の讃岐国への配流までを調べてみる。 保元元年(1156)5月初旬頃より鳥羽法皇は体調を崩していたらしく、同月21日には食事の摂れない症状を治療するため灸を施されている。しかし容態は回復することなく、日一日と悪化していく。そして6月1日には病気回復の祈祷を取り止め、臨終を迎えるための万歳の沙… ►続きを読む

 

白峯神宮 その3

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その3 2010年1月17日訪問 白峯神宮 御由緒  白峯神宮 その2では、天武天皇以降の皇統の継承ともう一人の祭神である淳仁天皇の生涯とについて見て来た。この項では最初に祭神となった崇徳天皇について調べてみる。 白峯神宮の祭神である崇徳天皇は、保元元年(1156)7月に起きた保元の乱に破れ讃岐国に配流となった上皇である。天皇あるいは上皇の配流は、天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、凡そ400年ぶりの出来事であった。 崇徳天皇は、元永2年(1119)鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれている。真偽… ►続きを読む

 

白峯神宮 その2

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その2 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮では、その周辺の地で起きた歴史的な事柄から白峰神宮の創建の経緯までを記した。この項では後に祭神に加えられた淳仁天皇について書いていくこととする。 先ず淳仁天皇に至る皇統を見ていく。第38代天智天皇、第39代弘文天皇(大友皇子)そして壬申の乱後に即位した第40代天武天皇の後は、第41代持統天皇(天武天皇后)、第43代元明天皇(草壁皇子妃)と天智系の2人の女帝と天武系の第42代文武天皇、第44代元正天皇が交互に即位している。つまり弘文天皇から聖武天皇までの間は直系男子への皇位継承が為さ… ►続きを読む

 

白峯神宮

 

白峯神宮(しらみねじんぐう) 2010年1月17日訪問 白峯神宮 今出川通に面した鳥居と神門  上立売通から今出川通に向かい油小路通を南に下っていく途中の東側に本阿弥光悦京屋敷跡の石碑が建っている。この地にあった本阿弥家の屋敷について、本阿弥光悦京屋敷跡、その2、その3の3回に亘って、本阿弥家の成り立ちから室町時代末期から安土桃山時代にかけての町衆の暮らしと法華宗門徒の繁栄、天文法難を生じた経緯、さらには江戸初期の洛中絵図において本阿弥家邸宅の所在を確認してきた。町人である本阿弥家の邸宅が幕府の作成した洛中絵図に記されていることより、幕府が本阿弥家に対して特別の扱い行ってきたことが分る。… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その3

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。 文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その2

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。 本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった… ►続きを読む

 

報恩寺

 

浄土宗知恩院派 堯天山 報恩寺(ほうおんじ)2010年1月17日訪問 報恩寺 境内  泉妙院の山門越しに尾形光琳とその一族の墓を拝観した後、寺之内通を再び西に戻り小川通を南に下る。凡そ40メートルくらい歩くと、通りの西側に報恩寺の山門と石橋が現れる。新しく建てられた寺号標には“浄土宗鳴虎 報恩寺”と記されている。寺之内通より北側の小川通は小川に沿って南下するが、百々橋の東橋詰めで通りが20メートル東に付け替えられている。そのため小川通から報恩寺の石橋までの間に20メートル程度の参道が生じている。その両側には民家の妻面が見えるため、少し不思議な空間になっている。山門手前の石橋は、かつて流れ… ►続きを読む

 
 

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