徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2019年 2月 03日

本阿弥光悦京屋敷跡 その3

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。 文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡 その2

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。 本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964… ►続きを読む

 

本阿弥光悦京屋敷跡

 

本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷  一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった… ►続きを読む

 
 

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