冷泉家
冷泉家(れいぜいけ) 2010年1月17日訪問
同志社大学今出川キャンパスの西門前に建つ薩摩藩邸跡の石碑は、この地に薩摩藩二本松邸があったことを示すものである。薩摩藩邸跡(二本松)からその4までの4回にわたり、薩摩藩の京屋敷について書いてきた。特にこの二本松藩邸は倒幕に舵を切っていく薩摩藩の政治活動の中心地であり、また軍事力の駐屯地でもあった。文久3年(1863)の藩邸完成後、払い下げになる明治5年(1872)までの10年に満たない短い期間だけでも、甲子戦争、薩長同盟そして鳥羽伏見の戦いという歴史の転換点の舞台となったことは特筆すべき点である。次回の訪問の際には、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いから払い下げに至る経緯について書いてみたいと考えている。
烏丸今出川の交差点を東に曲がると冷泉家の門が目に入ってくる。江戸時代の公家町は全て現在の京都御苑の中に納まっているという印象があるが、これは間違いである。文久3年(1863)に作成された内裏圖を見ると、今出川御門を出て今出川通を渡った東に伏見宮と二条家の屋敷が並ぶ。寺町通の東側にも愛宕家や坊城家の名前が見える。またこの地図の左端には郭外宮御門跡方堂上として輪王寺宮を始めとする79の家名が記されている。これらはこの地図の範囲外に屋敷があるものであろう。このように公家町の大部分が京都御苑の中にあったものの、それ以外にも門跡寺院や公家屋敷が存在していた。 この幕末に作成された内裏圖の今出川烏丸の交差点周辺を見る。交差点の北西角に裏辻家、そして北東角に竹内家の名前が見える。竹内家から東に、徳大寺家、藤谷家、冷泉家、山科家が並び民家を挟んで相国寺の参道、そして伏見宮家、二条家、廣幡家と続く。この9家の内、現在残っているのは冷泉家のみである。
冷泉家は藤原北家御子左家の流れを汲む公家で家格は羽林家、代々近衛中将に任官された。家名は冷泉小路すなわち現在の東西路の夷川通に由来する。平安京において、大炊御門大路と二条大路の中間に位置する小路で、この地に建てられた冷然院に由来すると考えられている。天皇の後院の一つであった冷然院は火災による焼失と再建を繰り返してきた。「然」の字が「燃」に通じ不吉であるとされ、天暦8年(954)の再建の際に冷泉院に改められている。そのため冷泉小路は改称後の呼び名であろう。
御子左家は醍醐天皇の第16皇子で左大臣となった兼明親王の通称である御子左大臣に由来する。親王の邸宅・御子左第(三条大宮)を伝領した長家が御子左民部卿と呼ばれたことによる。長家は藤原北家嫡流藤原道長の六男にあたる。寛仁元年(1017)に元服し従五位上に叙せられて以降、順調に昇進を続けてきた。治安4年(1024)正二位、万寿5年(1028)に権大納言に至るが、兄の頼通・教通・頼宗・能信が長く健在だったこともあり、この権大納言が極官となる。康平7年(1064)病のため出家、同年11月9日薨去、享年60。長家は「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に44首の作品が入首するなど、当時の歌壇の中心人物の一人でもあった。
長家の曾孫にあたる御子左家4代・藤原俊成は「千載和歌集」の撰者として有名である。永久2年(1114)生まれの俊成は、10歳で父と死別したため義兄の藤原顕頼(葉室家)の後見を得たものの位階は停滞してしまう。そのため天承・長承期(1131~35)より詠作を本格的に始め、保延4年(1138)には藤原基俊に師事している。崇徳天皇の歌壇の一員となったものの保元元年(1156)7月の保元の乱により崇徳院歌壇も崩壊する。保元4年(1159)内裏歌会が再開されるが、二条天皇の歌壇で重用されたのは六条藤家の藤原清輔であった。安元3年(1177)清輔が没すると、治承2年(1178)九条兼実に認められ九条家歌壇に師として迎えられる。寿永2年(1183)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188)第七勅撰集「千載和歌集」を撰進し名実ともに歌壇の第一人者となった。
「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」を撰進した藤原定家は俊成の二男として応保2年(1162)に生まれている。平安時代から鎌倉時代にかけての激動期において、父・俊成と共に御子左家の歌道における支配的地位を確立させている。特に治承4年(1180)から嘉禎元年(1235)までの56年間にわたる克明な日記・「明月記」が有名である。なお「明月記」は後世になって名付けられたもので、定家は「愚記」と呼んでいた。もともと俊成までの御子左家は代々の家記を残してこなかったようだが、自らの体験や収集した知識を多く書き残している。これは自身と子孫の公家社会における立身を意図したものの現われと考えられている。明月記をはじめ定家自筆原本の大部分は公益財団法人冷泉家時雨亭文庫に残され、明月記は2000年に国宝に指定される。
俊成、定家と二代にわたって歌人としては栄誉を得たものの政治の世界での成功を収めることができなかった。そのため定家は三男で嫡男とした為家の出世に心を砕いている。特に嘉禄元年(1225)同じく嫡男の公賢を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争っている。結果的にはこの出世争いで公賢が為家に勝つが、翌2年(1226)権門の娘を娶わせようとしたことに反発して公賢は出家してしまう。
為家は母の弟にあたる叔父の西園寺公経の猶子となり、順徳天皇に目を掛けられるようになった。しかし承久の乱で院が佐渡に流され、為家も院より同行を希望されたものの辞退している。乱後の朝廷は鎌倉方と親しかった公経が実験を握り、為家も順調に昇進していった。蔵人頭に敗れた翌年の嘉禄2年(1226)に参議として公卿に列する。嘉禎2年(1236)に権中納言、仁治2年(1241)には父を越える権大納言にまで昇っている。また為家は後嵯峨院歌壇の中心的な歌人としても活躍している。建長3年(1251)には「続後撰和歌集」を単独で撰進。康元元年(1256)に出家したが、文永2年(1265)には後嵯峨院から再び勅撰集の撰進を下名されている。しかし院が反御子左流である九条基家、衣笠家良、六条行家、真観(葉室光俊)の4名を新たに撰者に加えたため、為家は専らの嫡男・為氏に「続古今和歌集」の撰を任せてしまう。
為家は晩年になって同棲した阿仏尼との間に儲けた子・為相を溺愛したことにより、死後の遺領相続問題が発生している。嫡男の為氏の母は定家とも親交の厚かった御家人で歌人の宇都宮頼綱の女であった。為氏は御子左家の嫡流として二条家(摂家の二条家とは別)を興し、弟の為教は京極家、阿仏尼との間に生まれた為相が冷泉家を名乗った。このように御子左家は為氏等の時代に三家に分裂してしまう。
この内、二条家は後の南朝となる大覚寺統と結びついたのに対して、為教の子の為兼が伏見院の歌道師範として迎えられたことから持明院統(北朝)宮廷において歌壇を築いていった。為兼は和歌の師範の立場を超え、政治への介入を行うようになり二度の配流に遭い、元弘2年(1332)帰京を許されないまま河内国で没している。
京極家の後継者と目され京極為兼の養子となっていたのが権大納言正親町実明の子・忠兼であった。養父の為兼が失脚した正和5年(1316)に官職を止められるが、元徳2年(1330)従三位に叙せられて公卿に列する。元徳4年(1332)には正三位・権中納言に叙任され、越前権守を兼任。しかし正慶2年(1333)に光厳天皇が廃されると、忠兼も権中納言を止められている。南北朝時代が始まると、公蔭は北朝に仕え光厳天皇院政下で活動を始める。建武4年(1337)北朝より正三位・参議に叙任される。この年に公蔭に名を改めて正親町家に復している。光厳天皇らと共に後期京極派の一員として活躍した公蔭は、観応3年(1352)光厳上皇が出家すると後を追って出家している。法名は空靜。延文5年(1360)薨去。享年64。足利政権の内紛である観応の擾乱により、光厳院ら持明院統の要人が南朝側に監禁される。院が監禁されている間に持明院統を継いだ後光厳院が二条派を重んじたことにより、後嗣に恵まれなかった京極家はこの時期に断絶したとされている。
京極家と激しく対立し、勅撰和歌集の撰者を争った二条家は「玉葉和歌集」、「風雅和歌集」、「新続古今和歌集」以外の勅撰和歌集を独占した。破格・清新な歌風を唱えた京極家と比べ、二条家は保守的な家風を墨守し続けた。歌道としての二条派の実権は、為氏の子の為世に師事していた僧頓阿に移っており、さらに二条家の嫡流は為世の玄孫の為衡の死によって断絶する。
その後秘伝は、千葉氏の支流で武家の東氏を経て三条西家に伝わり明治を迎えることとなる。三条西家の高弟でもあった細川幽斎からは近世初頭の天皇家、宮家、堂上家、地下家に伝わったのが古今伝授であった。
御子左家から三家に分裂した内、大覚寺統と結びついた嫡流の二条家は二条為衡の死によって室町時代の初期には断絶している。また持明院統に就いた京極家も室町時代初期には家系が絶えている。それに比べ、阿仏尼との間に生まれた為相が興した冷泉家は現在まで続く。
父である為家が建治元年(1275)に亡くなると所領であった播磨国細川庄や文書の相続の問題で二条為氏と争うこととなる。母の阿仏尼が鎌倉へ下って幕府に訴え、為相も鎌倉へ下り幕府に訴え勝訴することとなる。この係争を通じ、為相は鎌倉における歌壇を指導し、藤ヶ谷式目を作るなど鎌倉連歌の発展に貢献することとなる。また娘の一人が鎌倉幕府第8代将軍・久明親王に嫁ぎ久良親王を儲けるなどもあり、晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐し同地で薨去している。冷泉家は2代目為秀、3代目為尹が継ぎ、為尹の子供の時代に上冷泉家と下冷泉家に分かれている。嫡流を長男の為之に継がせたが、次男の持為も足利将軍家から独立して一家を設けることが認められたため、為尹は応永23年(1416)播磨国細川荘等を持為に譲り分家させている。2つの冷泉家を区別するために為之の家を上冷泉家、持為を下冷泉家とするようになった。
戦国時代に入ると両家ともに京を離れ地方に下向している。上冷泉家は北陸地方の能登国守護・能登畠山氏や東海地方の駿河国守護今川氏を頼ることになる。上冷泉家は織田信長の時代には京都に戻ったが、冷泉為満が天正13年(1585)山科言経、四条隆昌と共に正親町天皇の勅勘を被り京都を出奔することになった。為満の妹が本願寺の門主・顕如光佐の次男興正寺顕尊の室であった縁を頼り、言経、隆昌と共に本願寺に身を寄せている。
下冷泉家は上記の所領地の関係で播磨守護の赤松氏とも親しい関係にあったが、戦国大名に所領を横領されるのを防ぐため細川庄に下向し直接当主が荘園管理を行った。しかし、2代政為の曾孫・冷泉為純とその子・為勝が戦国大名の別所氏に殺され荘園も横領されたために、為勝の弟・為将は京都に戻り7代目として下冷泉家を再興している。下冷泉家は播磨下向時以来、別所氏と敵対する豊臣秀吉と親しい間柄だった。関白太政大臣となった秀吉は下冷泉家の京都における再興に協力を惜しまなかった。このようにして京に戻った下冷泉家は禁裏を取り巻く公家町内に邸宅が設けられた。文久3年(1863)に作成された内裏圖では現在の京都迎賓館のあたり、石薬師御門に近い二階町にあったことが分る。 突然の勅勘を被った上冷泉家の為満も慶長3年(1599)徳川家康の執り成しにより勅勘を解除されると京に戻ることができた。しかし為満不在の上冷泉家は断絶したものとみなされ、中山親綱の子を立てて為親と名乗らせ、当主とする措置が執られたため、冷泉家当主の地位を失った為親のために新しい堂上家・今城家が創られた。ちなみに為満と同じく当主として戻った山科言経のためにも猪熊家が新しく創設されている。この猪熊家の当主になったのが猪熊教利であり猪熊事件の首謀者である。
勅勘が赦されて京に戻った上冷泉家の冷泉為満のための新たな邸宅は、既に公家町内が埋まっていたため現在の烏丸通の北側に建てられたとされている。現在の冷泉家の西隣の藤谷家は、冷泉為満の次男・藤谷為賢が冷泉家家祖である冷泉為相の別姓であった藤谷を家名として、新しく家を立てる事を許されたことによる。東隣の山科家は山科言経のための邸宅であろう。
これで2010年1月17日の訪問分全てを書き上げました。朝一番に訪問した京都御所 その3を書き始めたのが2014年6月26日だったので、この1日に5年間と204エントリー(関係ない特集も含めて)を費やしたことになる。最初から京都御所周りは時間がかかるとは思っていたが、それでも5年は長過ぎる。もう少しペースを上げて書いていけるように頑張ります。次は2010年9月18日分の鞍馬・貴船です。
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