徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:寺院・庭園

平等院

 

平等院(びょうどういん)  2008/05/11訪問 平等院 鳳凰堂  宇治上神社を後にして、さわらびの道を下っていくと川岸の道に出る。放生院の前を過ぎ、さらに進むと宇治橋の東詰めに至る。再度宇治橋に渡り、今度はあがた通ではなく、平等院表参道に入っていく。朝も9時を過ぎたので、両側の商店も店を開き始めている。そのまま商店街を直進すると突き当たりがやや広くなり右側に平等院と書かれた石碑が建っている。 平等院 表参道の先の入口  平安京が築かれた後、宇治には天皇の離宮や貴族の別業が多く造られてきた。これは宇治が嵯峨・白河・鳥羽などと並んで風光明媚な景勝地であったからである。現在の平等院… ►続きを読む

 

興聖寺

 

曹洞宗永平寺派 仏徳山 興聖寺(こうしょうじ)  2008/05/11訪問 興聖寺 法堂と前庭  橘島から朝霧橋を渡り、宇治川右岸を川に沿って上流に進む。茅葺屋根の朝日焼窯芸資料館を過ぎると観流橋が現れる。観流橋は宇治発電所からの流水路が宇治川に合流する地点に架けられた橋である。前日の雨のせいか発電所からの放水量も多く、周囲に大きな水音を轟かせていた。 観流橋 興聖寺へと続く道筋  橋を渡りきりしばらく進むと、石造の門柱に瓦屋根を載せた表門と興聖寺と書かれた碑がある。日本における曹洞宗最初の寺院、山号は佛徳山。 興聖寺 表門 興聖寺 琴坂と石塔  興聖寺へはこの表門をく… ►続きを読む

 

東福寺 芬陀院

 

東福寺 芬陀院 (とうふくじ ふんだいん)  2008/05/10訪問  東山本町陵墓参考地から再び東福寺の塔頭 芬陀院に向かう。伏見街道をさらに南下すると洗玉澗の流れと伏水街道第三橋で交差する。短い橋を渡りきると東福寺 中門が現れる。芬陀院は中門をくぐったすぐ右側にある。 東福寺 芬陀院 南庭  芬陀院は元亨年間(1321~1324年)に時の関白一条内経が東福寺開山・聖一国師の法孫にあたる定山祖禅を開山として創建した。以後、一条家の菩提寺とされている。 元禄4年(1691)に堂宇を焼失したが、関白一条兼輝により再建された。しかし宝暦5年(1755)の火災により再び堂宇を失うも、桃園天皇… ►続きを読む

 

東福寺 霊雲院

 

東福寺 霊雲院 (とうふくじ れいうんいん)  2008/05/10訪問 東福寺 霊雲院 遺愛石と須弥台  日下門を出て臥雲橋を渡り月下門の前を通り過ぎ、左に曲がると突き当りが霊雲院となる。  霊雲院は明徳元年(1390)に、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した高僧 岐陽方秀が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていた。 湘雪守沅は肥後熊本の人で、時の藩主細川忠利(細川ガラシャの子)と親交があった。湘雪が第7世住職として霊雲院へ移られる時に忠利は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と辞退した。… ►続きを読む

 

東福寺 方丈

 

東福寺 方丈 (とうふくじ ほうじょう)  2008/05/10訪問  本堂の北側に東福寺の方丈がある。庫裏から方丈に向かう廊下を渡ると、左に方丈南庭「八相の庭」と右に東庭「北斗七星」が同時に現れる。方丈を南庭から時計回りに廻り、東庭を最後に見ることとする。 東福寺 方丈 八相の庭と恩賜門  もともとは方丈とは1丈四方の面積(四畳半程度)であったが、その広さの部屋や建物を示す言葉となった。簡単に組み立てたり解体する事ができるので、鴨長明の『方丈記』のように僧侶や隠遁者に使われた。 維摩居士の方丈を見舞った文殊菩薩とその一行が、その狭い空間に全員入ることができたという逸話(維摩経)から、仏… ►続きを読む

 

東福寺 開山堂・普門院

 

東福寺 開山堂・普門院 (とうふくじ かいざんどう・ふもんいん)  2008/05/10訪問 東福寺 通天橋より方丈をながめる  右手に方丈を見ながら、本堂から北側に進むと洗玉澗にかかる通天橋が現れる。橋のたもとで開山堂と普門院の拝観料を支払い歩廊内に入る。 東福寺 通天橋より臥雲橋と洗玉澗  通天橋は天授6年(1380)、普明国師が谷を渡る労苦から僧を救うために橋を架けたと伝えられている。その後、何回か架け替えが行われてきた。現在の歩廊は昭和34年(1959)に台風によって倒壊したものを同36年(1961)に再建したもの。明治時代の「近畿名所」に掲載されている写真を見ると、確かに… ►続きを読む

 

泉涌寺 来迎院

 

泉涌寺 来迎院(せんにゅうじ らいごういん)  2008/05/10訪問 泉涌寺 来迎院山門  来迎院への道筋は善能寺と同じく、総門から大門の方へ回らず、泉涌寺道を直進する。仏殿脇の石段を下りると右側にたいこ橋と門が現れる。 来迎院は、弘法大師が唐土で感得した三宝荒神を奉安して開いたと伝えられている。その400年後の健保6年(1218)、月翁智鏡長老が堂宇を開創したが、応仁・文明の乱-応仁元年(1467)~文明9年(1477)-の兵火により炎上し、荒廃した。 その後、天正5年(1577年)、中興の祖・舜甫長老が織田信長より50石を受け、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い… ►続きを読む

 

泉涌寺 善能寺

 

泉涌寺 善能寺(せんにゅうじ ぜんのうじ)  2008/05/10訪問 泉涌寺 善能寺山門 右側の碑は「洛よう十八番ぜんのう寺」  善能寺は、泉涌寺総門をくぐり、そのまま大門の方へ右折せずに参道を直進すると左手下側に見えてくる。泉涌寺の中には入らず(伽藍拝観料を払わずに)石段を下ると左側に善能寺 右側に来迎院の門が現れる。 善能寺は、もともと八条油小路にあり二階観音堂とよんでいたが、弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺(日本で最初に祀られた稲荷大明神)として善能寺と号した。その後、 天文20年(1551)、後奈良天皇により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北(現在地は今熊野… ►続きを読む

 
 

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