東福寺 霊雲院
東福寺 霊雲院 (とうふくじ れいうんいん) 2008/05/10訪問
日下門を出て臥雲橋を渡り月下門の前を通り過ぎ、左に曲がると突き当りが霊雲院となる。
霊雲院は明徳元年(1390)に、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した高僧 岐陽方秀が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていた。
湘雪守沅は肥後熊本の人で、時の藩主細川忠利(細川ガラシャの子)と親交があった。湘雪が第7世住職として霊雲院へ移られる時に忠利は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と辞退した。そこで細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈した。
西郷隆盛と僧月照が密議を交わした寺、日露戦争中のロシア人捕虜収容所という歴史も持っている。
書院の前庭(南庭)は寛政11年(1799)に出版された「都林泉名所図会」に遺愛石のある庭として紹介されている。その後、庭も荒れ果て第16世景峰和尚が重森三玲に修復を依頼した。重森は昭和45年(1970)に九山八海の庭の修復と翌年46年(1971)に書院の西庭 臥雲の庭を手がけた。
九山八海の庭は須弥山を中心に取り囲む8つの海と8つの山脈という須弥山思想の世界観を体現した庭である。遺愛石の載る須弥台と石船を中心に同心円状の砂紋は8つの海を表している。この異型の造形ともいえる遺愛石と須弥台があまりにも強い求心力とシンボル性を放っているため、同心円の外側の全ての要素は緑と灰色を使って描かれた書割のような印象を受けた。そういう意味で書院前庭は完結した正面性を持ち得ている。
これに対して寺号霊雲院に因んだ命名による臥雲の庭は北西奥に龍門瀑を配置し、ここより始まる流れは橋をくぐり渦を作り、やがて南庭の大海に注ぎ込むこととなる。途中の茶色の砂紋はその上部にある臥雲を表現しているのだろう。縁側の下はさらに濃い色を持ってくることで、白・茶・紅というグラデーションが重層感を作り出している。
正面性の強い南庭に対して西庭はそれにそれに注ぎ込む大河という構成は理にかなったものと思われる。
ところで何の目的でこの庭に置いているのか分からないものがいくつかある。特に西庭が南庭に入るところにある柱状の燈籠の必要性を教えて欲しいものだ。
撮影した九山八海の写真を数えてもどうしても7つの山脈しか確認できなかった。この次は現地で数えてみます。
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