河合神社
賀茂御祖神社 第一摂社 河合神社(かわいじんじゃ) 2008年05月17日訪問
糺の森の中を南北に走る賀茂御祖神社の参道を歩いていくと、糺の森から出る直前、瀬見の小川の西側に賀茂御祖神社の第一摂社・河合神社がある。祭神は賀茂御祖神社の本社東殿と同じ玉依姫命である。タマヨリという神名には、神霊の依り代という意味を持ち、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女のことを指し示す。そのためタマヨリビメという名の異なる神や人間の女性が、様々な神話・古典に登場する。最も有名な玉依姫命は、神倭伊波禮毘古命すなわち神武天皇の母神であろう。この綿津見大神の子で、豊玉毘売神の妹である玉依姫命は古事記および日本書紀にも現れている。河合神社の祭神をこの神武天皇の母神とする記述も見られるが、むしろ、「山城国風土記」の賀茂神社縁起に出てくる玉依比売ではないかと思われる。玉依比売は賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子である賀茂別雷命を懐妊している。
河合神社鎮座の年代は不詳であるが、神武天皇の御代からあまり下らない時期とされている。延喜式では鴨河合坐小社宅神社と記されている。鴨河合は神社の鎮座地名で、日本書紀では社戸とも読まれる小社宅は本宮に祭祀された神々と同系流の神ということを意味している。なお延喜元年(901)の官符には「河合社、是御祖、別雷両神の苗裔神也」とある。
もともとは秦氏の奉祀する神社であり、賀茂氏が秦氏の婿となり祭祀権を譲られたと言われている。また糺の森は秦氏の河合神社の森であり、秦氏の松尾大社、元糺の森の木島坐天照御魂神社、糺の森の河合神社、比叡山四明岳が一直線で、夏至の日の出の方向を指していると大和岩雄氏は指摘している。
明治10年(1887)賀茂御祖神社の第一摂社に列せられている。現在の社殿は、延宝7年(1679)式年遷宮により造営された古殿を修理建造したもので、賀茂御祖神社の本殿と同じ三間社、流造、桧皮葺である。
河合神社には本宮摂社・貴船社、末社・任部社、そして諏訪社、衢社、稲荷社、竈神社、印社、由木社の六社と三井社がある。
方丈記の作者である鴨長明は、久寿2年(1155)賀茂御祖神社の神事を統率する正禰宜惣官長継の次男として生まれている。7歳で従五位下に叙爵されるが、18歳の頃に父を亡くし、琵琶と和歌の道に進む。琵琶の師は楽所預中原有安、和歌は初め勝命の、そして後に俊恵に師事している。治承4年(1180)は平清盛により都が福原へ遷されたため、宮中に奉仕する長明も福原へ赴任する。治承・寿永の乱(治承4年(1180)~元暦2年(1185))により平家は滅亡し、都は再び平安京へ戻されると帰洛している。養和元年(1181)頃「鴨長明集」を編み、文治2年(1186)頃に紀行文「伊勢記」を著したとされている。正治2年(1200)後鳥羽院第二度百首の歌人に選ばれ、翌年には「新古今集」編纂のための和歌所寄人となる。望んでいた河合社の禰宜職に就けなかったため、元久元年(1204)50歳で洛北大原に遁世する。後に出家して蓮胤を名乗るが、一般には俗名を音読みした鴨長明として知られている。
57歳の時、飛鳥井雅経の推挙により鎌倉に下向し将軍源実朝に面会するが、和歌の師範には迎えられずに終わる。 建暦2年(1212)に「方丈記」を著す。人と棲家の無常を主題とし、仏教観に基づいた内省を深めたエッセーとなっている。安元3年(1177)の大火、治承4年(1180)の辻風と福原遷都による混乱、養和元年(1181)からの飢饉、文治元年(1185)の大地震など、この当時の五大災厄は、自らの見聞体験と実感に基づく描写である。ほぼ同じ時期に歌論書「無名抄」、説話集「発心集」を纏めている。建保4年(1216)62歳で没している。
初め大原に隠棲した長明は、その後も転々としていた。58歳の頃、現在の伏見区日野船尾に落ち着いている。ヒデさんのHP・うろちょろ京都散策の中に、鴨長明の方丈庵跡を訊ねる(http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/hojyo-an-ato.htm : リンク先が無くなりました )には、長明が庵を結んだ地への道筋が克明に記されている。日野町野外活動施設を通り過ぎ、山中に入ること約7分で方丈を建てた大きな岩にたどり着く。この地には長明方丈石の碑立てられている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会にも長明方丈石の記述が残されている。
河合神社では、定期的に「鴨長明と河合神社」という資料展を行っているが、この資料展の際には、「方丈記」に基づいて復元された長明の方丈の実物大の模型が展示されるらしい。上記のように長明は日野の地に棲家を定めるまで、各地を転々としている。展示されている方丈は移動が便利なように、全てが組み立て式となり、広さは一丈四方、畳で五畳半程度となっている。間口、奥行き共に一丈四方ということから「方丈」の名が付けられている。方丈の建物は、地面よりわずか持ち上げた木の台座の上に建てられている事から、ある程度の基礎工事を行えば、どのような場所にも設置できたと考えられている。そのため移築を前提とした建物ともされている。
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