八大神社
八大神社(はちだいじんじゃ) 2008年05月20日訪問
詩仙堂丈山寺の小有洞から前面道路に出る。川端通から東に延びる曼殊院道は白川通を越えて、一乗寺下り松で北に折れるが、この下がり松から東に続く道は詩仙堂の小有洞の前を通り、八大神社そしてさらに東の高台にある狸谷山不動院へと続く。
八大神社は、永仁2年(1294)祇園八坂神社から勧請し、祭神は素盞鳴命、稲田姫命、八王子命となっている。そのため八大神社と八坂神社の祭神は同じと考えられている。ちなみに八坂神社は、慶応4年(1868)の神仏分離令により、下記のように改められている。
中の座 牛頭天王 → 素戔嗚尊
東の座 沙竭羅竜王 → 櫛稲田姫命
西の座 頗梨采女 → 八柱御子神
八柱御子神とは八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命の八柱である。また頗梨采女は牛頭天王の妻で、沙竭羅竜王は頗梨采女の父である。櫛稲田姫命も素戔嗚尊の妻である。
摂社、末社として、皇大神宮社、日吉大神社、八幡大神社、賢防大神社、諏訪大神、竈大神社、春日大神、新宮大神社、赤山大神、貴布祢大神社、加茂大神、柊大神社、鷺森大神、大将軍社、山ノ神社、牛宮社そして常盤稲荷神社がある。
八大神社は、高野村御霊社・修学院村天王社・藪里平良木天王社・舞楽寺天王社・山端牛頭天王社・白川村天王社と並ぶ比叡山麓七里の産土神の一つであり、古来より北天王と称し皇居守護神十二社中の一とされてきた。都の東北鬼門に位置し、方除、厄除、縁結び、学業の神として信仰あつく、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇も修学院離宮行幸の際、白銀などの 奉納があった。さらに永享10年(1438)には舞楽寺天王と藪里牛頭天王を勧請している。
しかし応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))で八大神社は焼失するが、文禄5年(1596)に再建されている。その後も享保3年(1719)に鳥居、享保13年(1728)に狛犬が建立され、そして嘉永2年(1849)社殿が造営されている。
天和元年(1681)に黒川道祐がまとめた「東北歴覧之記」によれば、修学院から舞楽寺、赤山、一乗寺まで何れも天王を勧請し、八大天王と称し、そして崇道天皇など八所御霊を所々に分かち祀っているとしている。八大神社の名前は八所御霊すなわち、六所御霊(崇道天皇、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂そして藤原広嗣)に菅原道真、吉備真備、井上皇后を加えた八霊に依っているとされている。
天明7年(1787)年に刊行された拾遺都名所図会では舞楽寺天王社を以下のように説明している。
「舞楽寺天王の社〔舞楽寺村山腹にあり、一乗寺八大天王と同神なり、土人生土神とす。諸社根元記云、舞楽寺社八大天王(西方末社)諏訪八幡、いにしへ此所に山門の末院ありて舞楽寺といふ、殊に桜紅葉多くして遊筵の地とす。薩戒記云、応永卅二年九月舞楽寺一乗寺辺に遊覧す。又二水記云、永正十四年十月将軍一乗寺舞楽寺に遊覧し給ふ〕」
また、安永9年(1780)に刊行された都名所図会でも一乗寺村の天王社は以下のように記されている。
「天王社は一乗寺山下里松の東にあり、古は舞楽寺のやしろといふ、八大天王を祭る。末社は諏訪八幡宮なり、此地の氏神にして例祭は三月五日なり。」
八大神社は、明治6年(1873)に藪里牛頭天王社を、翌7年(1874)にも舞楽寺八大天王社を合祀している。このため、金福寺の南東、一乗寺松原には八大天王社宮跡の碑が残されている。現在の本殿は大正15年(1926)に造営されている。
また八大神社は、吉川英治の小説「宮本武蔵」により、武蔵が一乗寺下り松の決闘の前に立ち寄ったと八幡社として紹介されている。諸説あるが天正12年(1584)生まれとされている宮本武蔵が21歳の時、一乗寺下り松で吉岡一門と決闘を行ったとされている。これは慶長9年(1604)のことである。決闘の朝、戦いの神である八幡社に祈ろうと立ち寄ったが、寸前で考え直しそのまま戦いに挑んだと後年武蔵が語ったことが資料として残されている。
自身の生き方を21か条に書き記した「独行道」には、
「一、仏神は貴し仏神をたのまず」
という心境が残されている。二の鳥居から本殿に続く参道には宮本武蔵の映画ポスターなどが掲示され、さながら武蔵記念館の趣がある。本殿への石段を登ると、本殿前に立砂が造られている。左側に注連縄が巻かれた一乗寺下り松の古木がある。この古木は昭和20年(1945)頃まで生きていたもので、現在の下り松は4代目とされているが、武蔵と吉岡一門との決闘が行われた頃からという意味であろう。この古木の前には、宮本武蔵のブロンズ像が置かれている。この新しい立像は、八大神社御鎮座710年決闘から400年を迎えることから平成15年(2003)に建立されている。結局御参りをしなかった神社に像が建立されるのも不思議な話しだ。本殿の右側には摂社・末社の社が並ぶ。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、一乗寺下り松に一の鳥居、そして詩仙堂の東に二の鳥居のある姿が残されている。
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