文書と写真・地図による「記憶」の再現

櫻本陵 その2

櫻本陵 (さくらもとのみささぎ) その2 2008年11月22日訪問

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櫻本陵

 安楽寺の石段を下りた先に、東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。既に周囲は宅地化された中に、矩形の敷地が手付かずに残されている。この冷泉天皇の櫻本陵の正面は、哲学の道をよーじや銀閣寺店の角から東に入った先にある。
 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子・憲平親王として生まれる。生後間もなくして、第1皇子の広平親王を押しのけて立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている。広平親王の母は大納言藤原元方の娘・祐姫であり、憲平親は藤原師輔の娘・安子を母としている。この決定を聞いた藤原元方は失望し、まもなく病になり天暦7年(953)に亡くなっている。

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櫻本陵

 笠原秀彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)によると、憲平親王は幼い頃から精神の安定を欠いていたとされている。それが元方の怨霊のせいだという噂が囁かれ始めるが、広平親王と祐姫が相次いで亡くなると、ますます噂は真実味を帯びてくる。村上天皇も、病身の皇太子ではなく第4皇子の為平親王を推挙し、群臣の間でも一定の支持を得ていたと笠原氏は記している。しかし為平親王は康保3年(966)に源高明の娘を妃に迎えていることから、藤原氏の強硬な反発に会い実現されなかった。為平親王が皇位に就くとなれば、源高明が外戚となり権勢を振うことになる。藤原氏はこれを恐れていた。

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 康保4年(967)5月、村上天皇の崩御を受けて、憲平親王は18歳で即位する。即位が紫宸殿で行われるようになる最初の式であった。これには人目の多い大極殿を避けたためとも言われている。冷泉天皇が即位すると空位となった皇太子の座を巡って、村上天皇の第4皇子・為平親王と第5皇子・守平親王の間で争うこととなる。年長の為平親王が東宮となることが当然視されていたが、上記のように源高明の存在が、またも退けられる。康保4年(967)9月、3ヵ月余り空位だった皇太子に、9歳の守平親王が立太子する。
 翌年の安和元年(968)藤原伊尹の娘・懐子が冷泉天皇の第1皇子・師貞親王(後の花山天皇)を生んでいる。そして安和2年(969)源満仲と藤原善時が、橘繁延と源連の謀反を密告する。この事件が拡大し、源高明が謀反に加担していたとされ、太宰員外権帥に左遷することが決定する。これが安和の変の大まかなあらましである。政変後左大臣に昇進する藤原師尹や孫の即位を期待する藤原伊尹の利害が一致し、安和の変を利用して他氏を排斥したとも見える。これとともに冷泉天皇は安和の変の後に守平親王(円融天皇)に譲位を行い、冷泉院上皇となる。そして師貞親王が立太子すると、藤原摂関家の地位はさらに強化されている。

 岩倉の町並みで触れたように、冷泉天皇の中宮である昌子内親王は、狂気の夫を恐れて殆ど里邸に過ごしたとされている。そして篤く仏教に帰依し、北岩倉山大雲寺に観音院を創建している。昌子内親王は大雲寺の観音に対して、夫冷泉天皇の脳病の平癒を祈ったとも考えられる。天禄4年(973)の皇太后、寛和2年(986年)の太皇太后を経て、長保元年(1000)崩御。享年50であった。昌子内親王の陵墓は現在の大雲寺の西側の岩倉陵にある。
 在位の短かった冷泉院上皇ではあるが、円融天皇、花山天皇より長生きをし、寛弘8年(1011)に62歳で崩御している。

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