愛宕念仏寺
天台宗延暦寺派 等覚山 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ) 2008年12月21日訪問
愛宕神社の一の鳥居を越え、平野屋の前を過ぎると上り勾配が強くなってくる。愛宕念仏寺は清滝トンネルの手前にある「おたぎでら前」バス停留所の前にある。
愛宕念仏寺は天台宗延暦寺に属し、山号は等覚山。
愛宕神社の入口にあることから「あたご」と読むように思われるが、山城国愛宕郡という地名から来ているため「おたぎ」である。愛宕郡は現在の京都市北区と左京区の地にあり、葛野郡とともに平安京を形成した地域である。嵐山の町並み項でも触れたように、この嵯峨の地は葛野郡に属し、愛宕郡はその東に位置していた。承平年間(931~ 938年)に勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した和名類聚抄には愛宕郡に賀茂郷、出雲郷から粟田郷、八坂郷、鳥戸郷などと共に愛宕郷があったとしている。
愛宕念仏寺の元となる愛宕寺は、8世紀中頃に第48代称徳天皇によって愛宕郷に開基された。第46代孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり、寵愛する道鏡を太政大臣禅師として重用したことが日本霊異記などにも残されている。この説話が真実かどうか分からないが、称徳天皇は深く仏に帰依し西大寺創建に心血を注いでいる。桓武天皇が第50代であることから、愛宕寺は平安遷都以前に創建された寺院であることが分かる。現在の地名では東山区松原通大和大路東入にあたり、六波羅蜜寺や六道珍皇寺の近隣である。この場所には愛宕念仏寺元地の碑が残されている。
愛宕寺は平安時代初めには真言宗教王護国寺に属していたとされているが、この時期には既に荒れ寺となっていた上、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失していたらしい。 安永9年(1780)に刊行された都名所図会では愛宕寺の開基を以下のように記している。
等覚山念仏寺は六波羅密寺の西にあり。〔むかしは此辺を愛宕の里といふ、今此名は当時に止りて世人愛宕寺と称す〕真言宗にして、開基は弘法大師、中興は千観内供なり。
称徳天皇は神護景雲4年(770)に崩御し、空海は宝亀5年(774)に讃岐国多度郡に生まれている。弘法大師が愛宕寺の開基ならば、称徳天皇の命によって創建されたことは時代的に合わないこととなる。また、京都観光Naviの愛宕念仏寺の項には、聖徳太子の創建、延喜11年(911)醍醐天皇の勅願による千観阿闍梨の中興と伝えている。下記のように、千観は延喜18年(918)の生まれてされているため、醍醐天皇の勅願というのも怪しくなってくる。どうも創建時期からの歴史が明らかになっていないようだ。
先の都名所図会や京都観光Naviの記述のとおり、荒れ果てた愛宕寺を復興したのは千観内供である。延喜18年(918)千観は橘敏貞の子として生まれている。従三位で中納言の橘公頼の孫にあたる家柄の出であるにも関わらず、園城寺に入り行誉あるいは運昭に師事して天台教学を学んでいる。もともと優秀な上に、他の者に交じらず食事の時以外は書庫に籠もって学んだとされている。内供とは、宮中の道場で天皇に奉仕し、御斎会の読師、または夜居を勤めた僧職を示す言葉であり、若くして高僧に任じられるほどのエリートであった。
千観がこのような地位を捨てたのは、空也との出会いとされている。千観は、街で出会った空也に来世で極楽に往生する方法を問うた。空也は「私のような下賎なものは、ただあちこちを歩くだけ」と告げて去ろうとした。千観はさらに強く請うと「いかにも身を捨ててこそ」と述べ立ち去ったとされている。空也については六波羅蜜寺の項で触れているのでご参照下さい。 空也との出会いの後と思われるが、千観は応和2年(962)摂津国箕面に隠遁し学問と往生行に専念している。翌3年(963)勅命により祈雨を祈願し奇瑞を現したといわれている。そして同じ年、宮中の清涼殿で行われた南都・北嶺の高僧による応和宗論に選ばれたがこれを固辞している。既に園城寺のエリート僧ではなくなっている。
千観は浄土教へ傾倒し、民衆布教のための和讃として阿弥陀和讃を作っている。そして念誦読経を怠らぬこと、専ら興法利生、往生極楽を願うべきこと、戒律を護るべきことなど8カ条から成る制戒や十願発心記を著している。このような経歴からも、千観もまた、円仁、良源、空也、源信、良忍、そして法然、親鸞と連なる浄土教から浄土宗への流れの中にいた1人と考えることが出来るだろう。愛宕念仏寺の公式HPによると、千観は大衆の苦しむ姿を見ては、身を捨ててその救済にあたり、川では船頭となり、山崩れがあったというと馬方をやり、旅の人を安全に送り届ける等、奉仕活動に身を尽くしたとされている。そして摂津国金龍寺を再興し、永観元年(984)に没している。
千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕寺から愛宕念仏寺に改め、天台宗に属するようになる。 この時、七堂伽藍を備え勅願寺としての体裁を整えたが、その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなった。先の都名所図会にも本堂と仁王門の他に役行者など5つの社が並ぶ図会が残されている。これはまだ東山の旧地にあったころの姿である。
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