文書と写真・地図による「記憶」の再現

嵯峨小倉陵



嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ) 2008年12月21日訪問

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嵯峨小倉陵

 去来墓西行井戸から再び鳥居本に連なる道に戻り、北へ進む。二尊院の門前を過ぎ、祇王寺・滝口寺そして檀林寺へ入っていく道を左手に見ながら、さらに200メートルくらい北へ向かう。左手に分かれる道の入口に、生垣を前にして後亀山天皇嵯峨小倉陵参拝道の道標が建つ。小倉山の斜面に向かって参拝道はやや上っていく。200メートル近く西に入っていくと右手に嵯峨小倉陵の石造の鳥居が現れる。陵形は五輪塔。

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嵯峨小倉陵 参拝道の始まり
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嵯峨小倉陵 参拝道の道標

 嵯峨小倉陵に葬られているのは、南朝第4代で最後の天皇となった第99代後亀山天皇である。正平2年(1347)後村上天皇の第2皇子として生まれたと考えられている。天皇であるにも関わらず生年がはっきりしていない。弘和3年(1383)兄である長慶天皇より譲位され即位している。この譲位は、南朝内の強行派の長慶と和平派の後亀山の内部対立の結果とも考えられる。そして後亀山天皇の在位9年間は南朝政権が最も衰退した時期にも一致する。それ以上に第3代将軍足利義満が率いる室町幕府との軍事力を含めた実力差は埋め難いものとなっていた。南朝にとっては和平による合一以外に採るべき道が残されていなかったともいえる。

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嵯峨小倉陵 参拝道に落葉が残る
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嵯峨小倉陵

 元中9年(1392)義満から両朝講和のための条件提示がなされ、後亀山天皇はこれを受諾(明徳の和約)している。三種の神器が大覚寺から北朝後小松天皇の土御門内裏に移され、南朝元号である元中は廃絶、北朝元号である明徳がそのまま存続することとなった。そして南朝の東宮・護聖院宮は廃太子され、後亀山天皇も大覚寺を仙洞とし、大覚寺殿と称されるようになった。幕府も北朝と南朝の双方の体面を保つため明徳5年(1394)即位しなかった天皇として太上天皇の尊号を後亀山天皇に贈るが、応永4年(1397)尊号は辞退されている。そして出家し隠遁生活に入るかに見えたが、応永17年(1410)嵯峨を出奔して吉野に入り、この地で暮らし始めている。表向きは生活困窮のためとされているが、南北合一の講和条件を破りに対する牽制と考えられている。すなわち北朝の後小松天皇の皇子・躬仁親王が次の天皇に譲位される動きを察しての行動とされている。しかし残念ながら抗議行動は実を結ばず、応永19年(1412)躬仁親王は第101代称光天皇に即位している。そのため応永23年(1416)幕府の制止を受け入れ、法皇は再び大覚寺に還御している。そして応永31年(1424)大覚寺で崩御している。

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嵯峨小倉陵 正面
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嵯峨小倉陵 五輪塔が見える

 明治44年(1911)南朝が正統とされたため後亀山天皇は歴代天皇として認定されるようになり、逆に光厳天皇から後円融天皇までの北朝の5代の天皇は宮内庁のHP・天皇陵にも掲載されないようになっている。

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嵯峨小倉陵 参拝道から見える藁葺き屋根

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No. 名称 緯度 経度
 嵯峨小倉陵 35.0247 135.6665

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